映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて(2019)

 監督/田中裕太、脚本/田中仁、制作/東映アニメーション

 TVシリーズ『スター☆トゥインクルプリキュア』の単独映画。『Go!プリンセスプリキュア』『映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!』に続き、タナカリオン&タナジンの最強タッグが放つ三度目の傑作。

 70分という尺の中で一つとして無駄なカットがない、完璧に計算し尽くされた凄まじい密度の構成。ユーマが徐々に感情豊かになってゆくことや、ヤスール火山が星の核まで繋がっているという台詞、そして何よりも「ながれぼしのうた」など、後になって実は全てが伏線だったと気付かされる。さらに、激しいアクションと濃やかな心理描写のメリハリが効いた演出、12星座のドレスで水モチーフの合わせ技といった視覚的快楽の強いデザイン、美しい音楽や美術など、あらゆる要素が申し分なく仕上がった完全なる総合芸術。しかし、本作を真の傑作たらしめているのは、その重厚かつ重層的なテーマ設定である。

 

 本作のゲストキャラクター・ユーマは「星の子」であり、関係を持った人・モノから強い影響を受けてしまうという性質を持つ。プリキュアである星奈ひかるや羽衣ララとユーマが交流し、各々が成長・変化してゆく過程から、様々なメッセージを読み解くことができる。ここでは、ユーマの「子」「星」そして「他者」という多面性に着目し、それぞれどのようなテーマが内包されているか考えたい。

 まず、「子」としての側面に着目すると、「育児」というテーマが浮かび上がる。ひかるとララが一夜を共にした(!)後にユーマが出現したことや、成長したユーマがひかるとララ(とフワ)が織り交ざったような容姿で登場することから、かなり明示的にユーマはひかララの子どもとして表象されていると言えよう。尊いルン。それによって、ユーマとの交流は、ユーマを育てる行為と限りなく近接することになる。

 ユーマへの接し方は、ひかるとララとで大きく異なる。ひかるは、ユーマが加害行為に及ぼうとした時はきちんと叱りつつも、基本的には好奇心の赴くまま肯定・称賛し、将来の選択においてもユーマの自由意志を尊重しようとする。それに対して、ララはユーマを心配する余り声を荒げたり、過保護になりすぎてユーマの行動を制約しようとしたりしてしまう。最終的には、ひかるがララを諭すことで、パターナリズム的な干渉が否定され、子どもの自己決定権の重要性が強調される。

 ただ、留意しておきたいのは、ララの不安は宇宙ハンターの出現という形で見事に的中した一方、ひかるはハンターのUFOを目撃しても「キラやば~☆」とはしゃぐのみで、警戒するララに窘められているという点だ。ひかるの好奇心もララの警戒心もそれだけでは不十分で、対照的な二人が足りないところをお互い補い合ったからこそ、あの結末に辿り着けたのである。尊いルン……

 また、ユーマの星がひかるたちと見た景色の継ぎ接ぎのようになっていたのは、ひかるのイマジネーションがユーマの血肉になり継承されていることを示している。いくら自由を尊重すると言っても、どうしても育つ環境によって選択肢が限られてくるのは否めない。そのため、なるべく多様な意見や経験に触れさせ、少しでも多くの可能性を想像できるようにすることが、子どもが“なりたい私”を自由に描いてゆく上で必要なのである。

 仮に、自己決定権が侵害され、イマジネーションが歪んでしまうと、劇中でユーマが「危険な星」になったように、子どもも心を閉ざしたり、道を踏み外してしまったりするかもしれない。ただし本作は、そこで親の責任について教条的に説教するだけで終わるような愚は犯さない。ひかるとララが歌に乗せて想いを届け、ユーマは再び心を開くのだ。かつて星奈母がひかるに歌い聴かせた「ながれぼしのうた」が、今またユーマへ受け継がれるという世代を越えたイマジネーションの連鎖もまた心憎い。たとえ育児で失敗したように思えても、親が子に伝えたイマジネーションは心の宇宙で確かに生き続けており、きっと何度でもやり直せる。

 プリキュアの映画は子どもだけでは観に行けず、彼女ら彼らを引率する親も大勢鑑賞することになる。本作は、そうした親たちの子育てに追われ振り回される苦痛に寄り添いつつ、子どもにとって本当に大切なことは何なのか、そのために自分たちが出来ることは何なのか考えさせる契機も与えてくれる、きわめて良質な育児ものなのである。

 次に、「星」としての側面を見てみよう。バーンの悪意を受けてユーマが「危険な星」になってしまう一幕は、人類の経済活動による地球環境の破壊を強く想起させる。ハンターらの欲望に晒され混乱し暴走するユーマの姿は、昨今頻発する異常気象そのものだ。短期的な利益に目が眩み環境を破壊してゆけば、いずれは私たちの暮らしも脅かされ長期的には立ち行かなくなってしまう。このように、「環境問題」に警鐘を鳴らすというのも本作のテーマの一つである。

 環境問題は、単に美しい地球が傷付くといった情緒的なものではなく、そこに住む人間を含む全生物を巻き込む現実的な事象である。地球の未来に思いを馳せることは、そのまま自分の子どもたち、すなわち将来世代について考えることに直結する。そこで、ユーマが「子」性と「星」性を併せ持つことや、ユーマと一緒に地球各地を見て回ったことが活きてくる。子どもたち、あらゆる生物の命、美しい自然や風景の数々、そして地球そのものが、「Twinkle Stars」の映像の力も相まって混然一体となる。それによって、目の前の誰かと出逢えた奇跡への感謝が、命の息づく星の奇跡への感謝に自ずと結び付き、この星の行く末は我々のイマジネーション次第だという使命感が湧いてくるのだ。決して押し付けがましくなく、環境問題を身近で具体的なものとして実感させる仕掛けは、見事という外ない。

 そして、ユーマは相互理解が困難な未知の生物、「他者」だということも押さえておきたい。ひかララとユーマの関係は、親と子、人と星といった垂直的なものに留まらず、「他者」同士の対等なものであった。他者と対話し理解に努め、その価値観を尊重するイマジネーションの大切さは、TVシリーズ本編で再三描かれてきたものである。本作はそれを改めて確認した上で、逆に子どもや星さえも「他者」であると認識することが、真の「多様性」の実現には必要不可欠だと提起しているように思う。

 前項で、子どもから地球まで、ありとあらゆる存在が結び付いて意識されることを指摘した。「子」「星」であるユーマが「他者」でもあるならば、同様にそれらの全存在も「他者」と見做すべきだという発想に繋がる。そもそも子の自己決定権も、子を親の所有物ではなく固有の人格や意思を持った個人、「他者」として尊重していることで成立するものだ。また中身に幾らか差はあるものの、動物の権利や自然の権利といった概念も存在する。動植物や無生物に意思はないではないかという反論もあるだろうが、単に現在の人間には意思と認識できないだけで、広い宇宙には遥かに多様な意思の様態が存在することは十分に考えられる。ただ、より肝要なのは、たとえ十全に理解できないものであっても、対等な価値を有するものとして尊重しようという姿勢こそ、イマジネーションの本領であるということだ。解らないからこそ認め合う、そうした素直な在り様が何よりも大切なのである。

 このように、本作は「育児」「環境問題」という二つの小テーマ、それらを包含する大テーマとして「多様性」を取り扱っていると解釈できる。なお、「育児」は前作『HUGっと!プリキュア』、「環境問題」は次作『ヒーリングっど♥プリキュア』のテーマでもあるため、なんとプリキュアシリーズ3年分のテーマが凝縮されているということになる。さすが2010年代最後にして令和最初のプリキュア映画、今・ここの問題意識を余さず盛り込んでいるのだ。キラやば~☆

 

 ところで、プリキュア映画では長らく、観客がミラクルライトを振って応援することでプリキュアに力を与えるという、第四の壁を破った演出がなされている。このメタレベルを含めて考えることで、他にも特筆すべき視座が立ち現れてくる。

 劇中、フワがミラクルライトを振るよう呼び掛ける場面は二つ存在する。中盤の対宇宙ハンター戦と、終盤の「Twinkle Stars」だ。前者はハンターらと戦うプリキュアを応援するという、通常想定される通りの使い方だ。対して後者は、歌い踊るプリキュアに呼応するように、まるでアイドルのライブでペンライトを振るかのごとく使用される。二つの行為は一見全く異なるが、実は共通する性質も多く含まれる。それぞれプリキュアと観客の行動に分けて考えてみよう。

 プリキュアが戦う理由は、TVシリーズではフワを、本作ではユーマを守る、つまり大切なものを守るためである。基本的には、大切なものが危機に瀕することで、危機の要因を排除する手段として実力行使がなされる。一方「Twinkle Stars」は、ユーマに想いを届け、ユーマの声を聴くため、すなわち対話の手段として歌われる。プリキュアにとってユーマときちんと対話することが「大切なもの」であり、それが不可能な現状を打破するために歌い踊る。つまり、戦うことと歌うことはいずれも大切なものを守りたいという祈りの行為であり、戦闘少女もアイドルも本質的には同一の存在なのだ。さらに言うならば、大切なものを守るとは、何かを大切だと思う自分自身を肯定し、大切なものを守れる自分になるということである。ここにおいて、戦闘少女ものとアイドルものは、少女の自己肯定・自己実現の物語(すなわち「変身少女もの」)として統合されるに至るのである。

 対して、観客がミラクルライトを振るのは、応援するためだと纏めてよいだろう。中盤の戦闘時に応援するのは、ユーマを守りたいという動機に共鳴しているというのももちろんあるだろうが、むしろプリキュアが敗北し膝を突く姿を見たくない、戦って勝つ姿を見たいという純粋な願いによるところが大きいと思われる。「Twinkle Stars」でも同様で、観客はユーマとの対話を望むといった理屈を超えて、歌い踊るプリキュアの姿それ自体に魅せられ、昂る感情に衝き動かされて暗黒に光を灯すのだ。したがって、少女が「変身」を果たさんとする瞬間のキラめきこそ、心から応援したいと我々に思わせるものの正体だと考えられる。

 一般社会においては、アイドルは疑似恋愛に過ぎないというような単純な論調が根強く、実際にそうした狙いの商業展開や、その種の目的で行動するオタクが数多く存在するのもまた事実だ。しかし、アイドル、もっと広く言えば「推し」に対するオタクの感情には、そのような一対一の恋愛(特に異性愛)の文脈では狭すぎて取り零してしまうものが多く存在すると思う。それはたとえば、オタクが「尊い」、ひかるが「キラやば」と呼ぶような、存在の全肯定ではないだろうか。少女の実存を賭した戦い、その眩いキラめきを目の当たりにして、この世界に存在してくれてありがとうと噛み締める。そのような奇跡への感謝こそ、人がアイドルを応援する真情の核なのだ。そう本作は雄弁に物語っているように思えてならない。

 ついでなので「Twinkle Stars」について付言したい。TVシリーズではこれまでも、マオの歌にプルンスが元気を貰ったように歌の持つ力が語られてはいたが、この映画ではより明確に、歌は人と人、そして星々を繋ぐイマジネーションの力に溢れているということを表現している。変身時に「スターカラーペンダント!カラーチャージ!」を歌うのも、そもそも歌とはイマジネーションそのものだから奇跡を起こせるのだという説明が成り立ち、結果的に思わぬ形で映画の伏線になりつつ、「イマジネーション」という作品全体のテーマをより深化させている。それまで単なる演出として片付けられていた変身バンクが、実は作品世界を貫徹する論理的帰結であったと再定義される衝撃。この異化効果はまさしくSFの醍醐味だ。

 超新星爆発やファーストコンタクトといった道具立ての時点で、SFとしての面白さは十二分に保証されている。しかしそれ以上に、作品設定を開示することで、それ以前の出来事は何もかも設定に即した必然だったのだと認識が書き換えられ、さらにその設定自体が一つのテーマを表現していることに気付かされるという、二重三重にそれまで見ていた景色を一変させてしまうような大仕掛け、そんなセンス・オブ・ワンダーこそが、本作の“強い”SFたる所以である。

 

 最後に、ひかララについて。二人で力を合わせて困難を乗り越え絆を深めるというような、他の多くの百合ものにありがちな物語とは、本作は様相を異にする。既にTVシリーズで強固に関係性が組み上がっているのを前提とし、子作りや子離れといったその先の物語が紡がれているのだ。この二人が「二人」になる過程ではなく、この二人がこの「二人」でなければならない理由を描いたことで、本作の百合は文字通り大気圏を突破しているのである。尊いルン!

 しかしながら、そんな二人が一緒にいるのは、プリキュアとして戦う上での一時的なことに過ぎない。いつか二人に別れが訪れることは、それまでTVシリーズの折々で示唆され、その後実際に描写されることになる。その事実は、本作では一切言及されないものの、むしろだからこそいっそう濃く暗い影を落としている。激しくユーマとの別れを拒むララに、いずれ来るひかるとの別れが全く念頭になかったとは思い難いし、我々はどうしてもそうした文脈を読み込んでしまい、胸を締め付けられながらも見守ることしかできない。結局、ララは一番大事なのはユーマの気持ちだと納得したが、それならばひかるとの関係については果たしていかなる答えを出すのか、思いを巡らさずにはいられないのだ。絶対的な信頼で結ばれながらも、常に終わりの予感が付き纏う、そんな安定と不安定の同居した二律背反の緊張感が、ひかララという関係性の特質だ。

 ちなみに、どのようにララがひかるとの別れを受け入れたのか、実はTVシリーズ本編中に具体的な描写はない。なんと2月に開催された「スター☆トゥインクルプリキュア感謝祭」キャラクターショーにおいて、初めてその胸の内が明かされるのだ。未見の方は是非とも7月発売のBlu-ray/DVDを購入されたい。

 

 さて、ここまで本作のテーマ性、アイドルやSFといったジャンル性、そして百合について語ってきたが、やはりどれだけ言葉を尽くしても、この綺羅星のような映像作品を表現しきることは不可能だ。それでも、自分の中にある「キラやば」を論理的に解きほぐし順序立てて説明しようとするのは、決して無意味なことではないと思う。理解しようとすること、理解してもらえるように歩み寄ること、その大切さはとっくに教えてもらっているのだから。

 最高の百合SF冒険少女ファンタジーはここにある。物語の力を信じている全ての人に、想いをこめて。


[百合の分類]2-2.パートナー

 

リトルウィッチアカデミア 第25話「言の葉の樹」(2017)

 2013年、文化庁の若手アニメーター育成事業「アニメミライ2013」の参加作品として第1作『リトルウィッチアカデミア』が、2015年には続編となる第2作『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』が公開。2017年、前作の設定を踏襲しつつ、新たにストーリーを仕切り直したTVシリーズリトルウィッチアカデミア』が放映。

 オリジナルアニメ。監督は吉成曜、制作はTRIGGER。第25話の脚本は大塚雅彦、絵コンテは吉成曜今石洋之、演出は宮島善博が担当。

 Aパート。魔獣ミサイル発射を知るも為す術は無いと諦めるクロワ、暴走した力は制御できないと聞いて黙り込むシャリオに対し、アッコそしてダイアナが出来ることはあると言う。クラウソラスに選ばれるも自分を見失い罪の意識に苛まれ続けるシャリオと、ひたすら研鑽を重ねてきたにも拘らず選ばれることはなく失意の裡に最後の計画にも失敗したクロワは、もはや自分の魔法を信じることが出来ず、状況をここまで悪化させておきながら対策を講じられない。しかし、この2人と最初こそ同じ立ち位置に居たものの、相手は自分に足りないものを持っていると認め、なおかつ相手に足りないものを持つ自分なら相手を助けることが出来るのだと気付き、互いに心を通わせ合ったため、アッコは臆面なく「出来るよ!」と言い放ち、即座にダイアナも「やってみる価値はありそう」と同意し得た程に、強く魔法を信じていられる。一方、最初にアッコとダイアナに夢を与えたのは外ならぬシャリオであり、アッコがここまで成長したのもアーシュラ先生の教えと導きがあってのことだ。だからこそ、アッコとダイアナはシャリオとクロワの役割を引き受け、現在まで尾を引く負の連鎖に終止符を打つ力と責任を担うに至ったのである。尊い

 アッコの発案で結成されたニューナインウィッチによって、ミサイルを追うために箒が連結される。ナインオールドウィッチの魔法という伝統と、クロワやコンスタンツェの科学という新しい力が交わることで、5つ目の言の葉「シビラデューラ レラディビューラ」が発動してシャイニィバレイが生み出される。さらにヤスミンカの火力、コンスタンツェの技術力、アマンダの操縦能力、そしてスーシィの猛毒とロッテの精霊召喚の合わせ技と、それぞれの持ち味を活かして多段式ロケットの要領で次々と箒を切り離し、推力を上昇させてゆく。これまでアッコの頑張りを間近で見届けてきて、アッコなら何かやってのけるに違いないという確信と信頼があるからこそ、同じ目的のために自分に出来ることを精一杯やろうとするし、安心して後を任せられるのだ。いつもは皮肉屋のスーシィが「アッコのためにやってやりますか」と素直に口に出してしまうのとか、本当に尊い

 Bパート。人々の“信じる心”が直接魔力として注がれ、飛び続けるアッコとダイアナ。恐らくウッドワードが流したのであろうその映像を見たクロワは、世界中のモニターをジャックして、シャリオに「マイクパフォーマンスは得意でしょ」と応援演説を請う。自分を信じて実際に状況を変えてゆく2人にクロワもまた変えられて、それまで認められずにいたシャリオの芸能活動の成果を、同じく信じられずにいた“信じる心”のためには今まさに必要なものだと思えるようになったのだ。それによってクロワに負い目を感じ続けてきたシャリオも救われ、世界に向けて「信じる心が私達の魔法です」と呼び掛ける。擦れ違うばかりであったシャリオとクロワが、その裏返しの存在であり継承者であるアッコとダイアナによって因業を清算されることで、自分と相手に正面から向き合って和解を遂げた瞬間であった。尊い

 ダイアナが巧みな操縦で迫り来るミサイルを回避する傍ら、アッコは得意の変身魔法「メタモール フィ― フォシエス」でミサイルを無力化してゆく。最初はいがみ合っていた2人が、互いを信頼し共闘するまでになったことに思わず目頭が熱くなる。また、単にミサイルを破壊するのではなく、人々を楽しませるエンタテイメントに変えてしまうというアッコならではのやり方が奏功するのは、愚直に信じてきたことが決して無駄ではなかったという何よりの証明だ。しかし、いくら成長したとは言え、依然としてアッコは変身魔法くらいしか取り柄の無い落ちこぼれであるのもまた事実。それ故にアッコは完全にミサイルを御すること能わず墜落する。ダイアナもまたアッコがいたからここまで来れたのであり、単独で突っ走って空回りする余り失敗してしまうこともある、決して完璧ではない存在だというのは第1作や第2話「パピリオディア」で示された通りだ。落ちてゆくダイアナの手を取ったのは、流星丸に乗ったアッコ。第1作や第3話「Don't stop me now」における、箒に乗ったダイアナがアッコを助けるという構図を反転させたものであるのは言うまでもない。そして流星丸は、これまでアッコを助け、アッコと関わる中で心を動かされて自らもまた変わっていった数多くの人々の代表だ。誰かに助けられてばかりだったアッコが、人との繋がりの中で少しずつ成長し、様々な協力を得てダイアナを助けることまで出来るようになったという、これまで積み重ねてきたあらゆる想いや結び付きが凝縮し結実した象徴的なシーンと言えよう。尊い、尊すぎる。

 第1クールOP「Shiny Ray」を背景に、人々の“信じる心”が縒り合わさって世界樹イグドラシルを復活させる。何気にエゴサ小説家アナベルやネット投資家ファフニールが、モニターの前でこの瞬間に立ち会うことの説得力が大きく、細かな設定を活かしきっていると感じる。そうして中継を見守るキャラクター達と、TV画面の外から声援を送る視聴者自身を重ね合わせ、“信じる心”を現実世界に呼び込む優れたメタ的表現にもなっている。アッコとダイアナは1つ目の言の葉「ノットオーフェ オーデン フレトール」を詠唱、シャイニィアルクを起動し、ミサイルを笑顔の光に変えることに成功。第1作では独りで、第2作ではロッテとスーシィと3人で使ったシャイニィアルクを、シャリオに憧れた者同士でありながら全く正反対の境遇に置かれていたダイアナと、心を一つに手を取り合って放つ、そんな大気圏も過去から現在へ至る因縁も全て突破する百合が最高に尊く美しい。世界改変魔法グラントリスケルの力で世界中に星が降り蝶が舞い、“みんなが笑い合える世界”へと変わる。その輪の中にいる金髪碧眼の少女、次いで大写しになる見るからにアッコ似の少女は、ダイアナとアッコに夢を与えられ、次世代でまたその役割を受け継いでゆく者であると予感させられる。シャイニィロッドが消えて北斗七星になる場面は、『キルラキル』の鮮血の死を彷彿とさせつつ、戦いの犠牲になるのではなく願いを叶え役目を終えるという形で、優しくも力強い本作に相応しく再構築されていた。

 後日談。クロワがワガンディアの呪いを解く方法を見つけたいと言うのはシャリオへの想いが感じられて良いが、自分のせいでシャリオが飛べなくなったとアッコが知ることがなかったのは少し残念。そして第1クールED「星を辿れば」が流れつつ、アッコが飛行魔法「ティアフレーレ」を練習するのを皆で見守るという、平穏を取り戻した日常が描かれる。あれだけ反目し合っていたアマンダとダイアナが同じテーブルに着いてお茶していたり、自分の気持ちに素直になってオタクをカミングアウトしたのか、バーバラがロッテと一緒にナイトフォールを読んでいたりと、ここへ来て新カップリングをぶち込んでくるのが実に素晴らしい。バーバラもロッテ同様に腐女子なのだろうか。一方、アッコの帽子を返しにアンドリューもルーナノヴァを訪れる。アッコの真っ直ぐな姿に本心を引き出され、魔女の世界とは隔絶された政治の場において自分の信じるままに父に立ち向かうことが出来たアンドリューが、思いを再びアッコに受け渡すことで、魔法と政治で分裂していた物語が合流する。アッコによって巻き起こされた“信じる心”が一つに統合されてアッコに還り、生きた力となって、遂にアッコは飛べるようになるのだ。ここでコンスが「飛んだ……」と初めて言葉を発し、アッコの成し遂げたこと、その大きさと温かさが改めて呼び起こされ、感慨も一入である。

 というわけで、TRIGGERが圧倒的な作画の暴力でやりたい放題やっているように見えて、2クールかけて積み上げた物語が「信じる心がみんなの魔法」という一つのテーマに向けてきちんと収束している文句無しの最終回であった。1クール目のような一話完結型の日常回をもっと観たいという人は多いだろうし、ヤースナやハンナやバーバラの担当回も無かったので、是非とも2期を製作して頂きたいところだ。出来ることなら、もっとグロス少なめの余裕を持ったスケジュールで。

[百合の分類]2-5.偏愛 他 

 

シムーン(2006)

 全26話。

 オリジナルアニメ。監督は西村純二、制作はスタジオディーン

 後天的に性別を選択する世界において、オーバーテクノロジーの兵器で戦う少女たちを描いたSF群像劇。内容は、小山田風狂子(會川昇)や大和屋暁が中心となって手掛けた前半と、岡田麿里と監督自らが交代で脚本を執筆した後半とに分かれる。前半では、世界観や登場人物を紹介しつつ、性別を選択する年齢に達しながら巫女であり続け、巫女でありながら戦争に出るという矛盾と葛藤に焦点が当てられていた。一方、後半になると、戦況が敗色濃厚になりゆく中、少女同士の関係性や思春期における自己決定といった実存の問題へと物語の比重が移されてゆく。序盤で挫折する人は多いだろうが、本格的に面白くなってくるのはむしろ中盤以降であるのが敷居の高さの所以か。

 シムーン・シヴュラが性別の選択を猶予され「少女」で在り続けるというのは、若さや美しさに価値を置き、処女性を神聖視する男性中心的なジェンダー規範を揶揄しているかのようだ。そんな「神の乗機」シムーンが破壊兵器として敵を蹂躙するのは、少女とは決して信仰という名の消費をされるだけの無力な客体ではなく、それを逆手に取って利用する強かさと、不当な支配構造を暴き社会を転覆しかねない危うさを内包した主体であることの表れだろう。しかし、世界は少女が力を有することを許さない。シムラークルム宮国はアルゲントゥム礁国による度重なる侵入を受け、遂にシムーンは墜ち不敗神話は崩れ去る。圧倒的な物量差と科学力を前に敗戦へひた走る姿は、第二次世界大戦時の日本とも重なる。さらに、戦勝国同士であった礁国とプルンブム嶺国もやがて対立し、分割占領された宮国に再び戦争の影が忍び寄ってゆくというのも、米ソの冷戦と代理戦争を彷彿とさせる。一方、少女から大人へとモラトリアムを卒業することを余儀なくされた人々は「永遠の少女」という可能性を夢見るが、それも所詮は見果てぬ夢、過ぎ去りし日の懐かしき思い出として美化された墓標であり、残酷な世界に留まって生きてゆかねばならないという現実が突き付けられる。少女と社会、宗教と戦争といった硬派な問題意識が織り込まれた、骨太の傑作である。

 本作は百合アニメと評されがちだが、むしろ「百合」の枠組を相対化したものであるということは、『ユリイカ』第46巻第15号で上田麻由子が詳細に論じている通りである。『ウテナ』が「百合はいかにして可能なものか」を描いたものとすれば、さしずめ『シムーン』は「これまで百合はいかなるものであったか、そしてこれからどこへ行くべきか」を問うたものであり、両者は共にメタ「百合」アニメの系譜に位置付けることが出来る。たとえ「永遠の少女」が人々の感傷と追憶の中にしか存在し得ないものだとしても、アーエルとネヴィリルの恋愛と旅立ちは紛うことなき本物であり現実であった。少女という時代との決別を切なくも美しく謳い上げることで、閉鎖的な少女の世界に留まっていた「百合」を希望の大地へ、自由な新天地へと羽ばたかせたのである。

 もちろん、純粋に百合的な見所も盛り沢山だ。単にシムーンと話すために機械的にキスするだけでなく、きちんと個々人の感情に裏打ちされた関係性の描写がそこかしこに散りばめられている。個人的には、岡田麿里初脚本回である第12話「姉と妹」が、強烈に百合を感じた良回であった。当初の思い込みが覆されるのが心地良い。他にも、終始男好きであるかのような言動を取っていたフロエが、本当は誰のことが好きだったのかなど、色々と掘り下げて考える余地があるのも嬉しい。己の視線に自覚的になりつつ楽しもう。

 独特な世界観、耳慣れぬカタカナの設定の数々と取っ付き難い作風ではあるが、それだけに唯一無二の観る価値がある。コール・テンペストの面々はしっかりと描き分けられて魅力的な個性を放っているし、「最上の愛」といった鮮やかな伏線回収や、各話を象徴する美麗なアイキャッチも素晴らしい。音楽や美術は非常に繊細で美しく、総合芸術としてのアニメーションの魅力が存分に詰まっている。美しければそれでいい。

[百合の分類]2-4.バディ→1-3.自覚と告白 他

 

カレイドスター(2003)

 第1期26話、第2期25話、OVA3本。

 オリジナルアニメ。監督は佐藤順一、制作はGONZOとG&G Entertainment。

 王道の成長物語。主人公が仲間や家族に支えられつつ努力と葛藤の果てに夢を叶えるという一見陳腐なストーリーだが、人物の心情に寄り添い一つひとつの展開をしっかり積み上げてゆく作り込まれた構成と、それを巧みに映像という形に落とし込み活き活きと芝居を魅せてくれる安定した演出によって、嘘のようにぐいぐい引き込まれて観始めたら止まらない。健康的な色気のあるキャラクターデザインも好感が持てる。厳しい特訓の描写などからスポ根と評されることもあるが、観客を楽しませるサーカスを題材とすることで、勝利の興奮などよりも余程大きくて深い「感動」を与えてくれる、普遍的な物語を描き出すことに成功している。

 主人公・苗木野そらを始めとして女性が多く登場するが、本作の主眼はあくまでも個人の成長に置かれているため、関係性それ自体の強さが押し出されず百合要素は薄い。しかし、最初は憧れの対象でしかなかったレイラと互いに高め合うまでになる経過や、苦手意識を持ちつつも深いところで通じ合っている親友・まなみとの遣り取りには、決して無視出来ない尊さが存在するのも確かだ。結局それらは成長の糧でしかなく、カップリングとして際立ってはいないので、過度の期待は禁物だが百合的な見方も全く不可能ではない。

 とにかく すごい 傑作。シリアスとギャグの配分も良く、シンプルながら高い完成度だ。挫折を乗り越えて自分の信じる道を進むそらの姿を見れば、きっと人生において大切なことを教わり、明日を生きる勇気を貰うことが出来るだろう。最高の喝采を送らざるを得ない。

[百合の分類]2-4.バディ

 

ストロベリー・パニック(2006)

 全26話。

 原作はメディアワークス『電撃G's magazine』の読者参加企画・公野櫻子Strawberry Panic!」。監督は迫井政行、制作はマッドハウス

 聖ミアトル女学園、聖スピカ女学院、聖ル・リム女学校の3つの女子校と、3校共通の寄宿舎・いちご舎を舞台に繰り広げられる恋愛群像劇。古典的な百合のお約束や様式美で固めつつ、肉体関係にまで及ぶ大胆な描写も取り入れており、現在の多様な百合表現から見て先駆的・過渡的存在であったと評せる。男性目線を意識したような媚びた要素が目立つのは否めないが、作品世界からは男性が徹底的に排除されている。

 入念な構成や巧妙な伏線の張り方が特徴だが、裏を返せば仕込みが遅く登場人物の核心部分が終盤まで明かされないということであり、それが仇となって初見ではいまいち背後関係が見えにくく感情移入しづらい作品。代表的な百合アニメとして名前が挙がることが多いが、むしろ幾度もの鑑賞を要求する玄人向けであると言えよう。

 人物造形や設定情報の出し方にも難がある。ミアトルの渚砂と静馬、スピカの光莉と天音の2組のCPを両輪として話が展開するものの、渚砂以外は基本的にヘタレで敢えて応援する気になれない。特に光莉は、王子様を待つお姫様という三流少女漫画にありがちなうじうじめそめそした受動的な性格が鼻に付き、第25話でようやく意地を見せるが少し遅すぎるという感が強い。他にも、静馬は序盤の掴みでもっとカリスマ性を強調すべきだったとか、注文は幾らでも付けられるのだがこれくらいにしておこう。

 一方、本作の見所はやはり、片想いの切なさを余すところなく描き切った点にある。主軸の4人に比べると、周囲の人物の方が必死な想いを抱えているのが痛いほど伝わってきて、共感しやすいし好感が持てるのだ。第20話で玉青、第21話で深雪、第22話で夜々と要というように、それまでの人間関係が一気に収束へ向かってゆく怒涛の伏線回収は圧巻。特に「例えば地球温暖化だ」を筆頭に数々のネタと奇行で知られる要が、ここまで男前な役柄に回るとは誰が想像できただろうか。そして最終話の「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」という心震える演出。誰もが幸せな結末というのが不可能な中で、それぞれの想いをきちんと着地させ、一つの物語として纏め上げたところは高く評価したい。

 このように、色々と惜しい作品ではあるが、百合好きなら見過ごせない魅力があるのも確かだ。ガチ百合アニメがほぼ皆無な現状、観ておいて損はないだろう。

[百合の分類]1-3.自覚と告白

 

エル・カザド(2007)

 全26話。

 オリジナルアニメ。監督は真下耕一、制作はBee Train

 西部劇調のロードムービー。前2作から一転、眩しい太陽が似合う陽気で軽快な作風で、魔女やら何やらといった設定の重さを余り感じさせない。主題や脚本はそこまで深いものではなく、謎の解明や過去の探求も若干消化不良なまま終わってしまう。そうした従来突出していた要素が削ぎ落とされた代わりに、百合成分が圧倒的なまでに強化され、ナディとエリスが終始いちゃいちゃしながら旅を続けるという百合好きには堪らない素晴らしい作品に仕上がっている。

 このアニメ、何と言ってもエリスが可愛い。「いえっさ」あざと可愛すぎる。女性に対してはイエスマムだろとか野暮な突っ込みはしない方向でお願いします。そんなエリスがナディと旅する内に初めて湧き上がる様々な感情を経験し、徐々に深い絆で結ばれてゆく。こうなるとバカップルの会話で尺はほぼ埋まり、もう視聴者はにやにや笑うのを止められない。特に第19話、百合夫婦だと認めたも同然の会話は、まさに尊いの一言に尽きる。ラスボスとの対決をあっさり終わらせ、最終話を丸々後日談に使った点にも、2人の関係性をきっちり見せようという百合に優しい心意気を感じる。ガチ恋愛でない作品で、ここまで純度の高い百合を精製したものが他にあれば教えてもらいたいくらいだ。

 整合性の『NOIR』、過剰性の『MADLAX』に比すと、さしずめ百合萌えの『エル・カザド』といったところか。完成度で幾分か後れを取り、中身の無さでは群を抜くものの、だからこそ百合の美しさを存分に味わえるように出来ているのだ。

[百合の分類]2-4.バディ

 

MADLAX(2004)

 全26話。

 オリジナルアニメ。監督は真下耕一、制作はBee Train

 舞台は戦場、敵は情報犯罪組織と、『NOIR』に比べて血生臭く陰鬱な作風。随所に謎や伏線を散りばめた複雑かつ難解なストーリー、セカイ系的な世界観、強いメッセージ性、陰謀論めいた設定、古代文字や呪文といった厨二病な小道具、天然お嬢様やメイドといった確信犯な萌えキャラ達、そして乱立する百合フラグ等々、てんでばらばらな要素がこれでもかと過剰なまでに詰め込まれているにも拘らず、やはり落ち着いた雰囲気に纏まっているのは演出と音楽の為せる業か。

 前述のように本作では百合フラグをばんばん立てており、そこかしこで繰り広げられるいちゃいちゃやら一方通行やらをにやにや眺めて楽しむという仕様になっているのだが、そんな愛らしい登場人物達が終盤ばたばたと死んでしまうため、とてもやるせない心持ちにさせられる。特に、マドラックスが見逃したせいでリメルダにヴァネッサが撃ち殺されたのに、結局そのリメルダとくっ付いてしまうという展開には全く納得が行かなかった。ただ、第24話でエリノアの本質が示される場面を筆頭に見所が沢山あるのもまた事実、評価の難しいところである。

 一応、人間の本質は衝動か理性かという哲学的な主題を扱ってはいるのだが、基本的には深く考えず流れに身を任せて良いだろう。挿入歌「nowhere」、俗に言う「ヤンマーニ」の無双銃撃戦の映像的快楽で一点突破しており、そこを楽しめれば問題ない。そうした抜きん出た部分が多い反面、全体としてはとっ散らかり過ぎて総合的評価が低くなりがちな作品ではあるが、所謂「美少女ガンアクション三部作」の中では最高傑作と言っても良いのではないかと思う。百合が比較的薄いのが返す返すも残念。

[百合の分類]2-4.バディ

 

NOIR(2001)

 全26話。

 オリジナルアニメ。監督は真下耕一、制作はBee Train

 真下耕一の独特な間を取った演出と、梶浦由記の美麗な音楽が組み合わさった極上の雰囲気百合アニメ。ゆったりと落ち着いたテンポで、余計な説明を排して静かに淡々と進行する作りが特徴的だ。美少女が拳銃をぶっ放し無双するというご都合主義展開ではあれど、徹底的にやり切ることで洗練された様式美として昇華させている。

 舞台は裏社会、敵は秘密結社という重厚な設定は、ハードボイルドなガンアクションをやるにはうってつけだ。ソルダ内部における現実主義と原理主義の対立というのもいかにもありそうで説得力がある。物語の構造がすっきりしているお蔭で、あれこれ無駄なことを考えずに作品に入り込めるというわけだ。中途半端な小細工をしていない分、本筋が予定調和的にこぢんまりと纏まってしまい、裏稼業の非情さを描いた一話完結の話の方が見応えがあるというきらいはあるが、そこは演出と音楽の効果で充分に補えているだろう。むしろ、本作は「銃と少女」というテーマをいかに美しく見せるかという表現技法を追求したものであり、設定や脚本に難癖を付けるのは野暮というものである。

 見所は、バディものから三角関係へ発展する百合展開。最初はミレイユと霧香が暗殺者コンビ「ノワール」を結成し、少しずつパートナーとしてお互いを信頼し合うようになってゆくが、物語が進むにつれて霧香とクロエの二人が本来ノワールになるべき存在として育てられたということが明らかになる。この、せっかく夫婦になれたのに実は相手には本妻がいたんだ!という感じが実に百合である。欲を言うならば、クロエを更に掘り下げた上でミレイユや霧香に匹敵する程の可愛く魅力的なキャラクター造形にした方が、三角関係をもっと盛り上げることが出来たのではないか。

 一つひとつの要素の完成度が高く、観る者の期待を裏切らない。お洒落アニメの一つの到達点と言えよう。

[百合の分類]2-4.バディ

 

灰羽連盟(2002)

 全13話。

 原作は安倍吉俊の同人誌『オールドホームの灰羽達』。監督はところともかず、制作はRADIX

 静謐な雰囲気、幻想的な世界観、淡々と進む展開、落ち着いた演出と、どれを取っても美しく癒される。贖罪と救済という宗教的な題材を扱ってはいるが、絶対他者などではなく罪と向き合う主体としての自己の在り様に焦点を当てており、これもまた実存不安を問題化した作品であると言える。

 ラッカがレキを救うには「罪を知る者に罪は無い」という罪の輪から抜け出さねばならないというのが物語の骨子。レキは良い灰羽になろうと他人に親切に振る舞うが、それは救済を目的とする自己本位な行動だと自分を責めるという悪循環に苦しんでいた。そのような救済を拒否する自罰意識を告白・克服し、拒絶を恐れずに自らラッカに助けを求めることが必要であり、ラッカもまたレキの絶望や嫉妬を理解し受け止めた上で助けようとしなければならない。救う者と救われる者との間に横たわる断絶を綺麗事抜きで丹念に描き出し、両者の魂の救済へと昇華させた最終話は圧巻であった。百合的にも有数の神回だろう。

 基本的に寓話であり、灰羽やグリの街が何を表しているかは特に重要ではない。雰囲気と百合を穏やかに楽しむことに特化しており、派手な興奮こそないものの深い感動を得られる。ただ、一言文句を言わせてもらうと、他人の部屋で喫煙するという描写に若干腹が立った。煙草の臭いが服やベッドに移ることに頓着しない作り手の無神経さが透けて見えたからだ。その辺の気配りが足りていれば胸を張って名作と紹介できたのになぁと惜しいところである。

[百合の分類]2-3.シェルター

 

serial experiments lain(1998)

 全13話。

 オリジナルアニメ。監督は中村隆太郎、制作はトライアングルスタッフ

 良くも悪くも実験的な作品。前半は断片的な情報しか提示せず、後半からようやく事件の顛末や世界観の全貌が姿を現し始める。それでも、どこからどこまでが本当に起こったことなのか曖昧にするような演出や、嘘や誤解を放置したまま進む展開のせいで、多くの謎を残す難解な物語となっている。仮想世界「ワイヤード」が現実世界「リアルワールド」を書き替えてゆくという典型的なサイバーパンクでありながら、最後には科学技術による世界認識の拡張よりも人間の自我に基づく実存的な意思を肯定した点は興味深かった。

 百合を期待して観るものでは全くないが、第12話で玲音がありすを「繋げる」ことを拒否する場面は百合として大変尊いものになっている。確かに繋げてしまえば思い通りにはなるだろうが、それでは「ありすが好き」という気持ちが届いたことにはならないのだ。胸に手をやらせて心臓の鼓動を聞かせるというまさに百合的お約束展開が美しい。結局想いは叶わず、最終話で玲音はありすのために世界から自身の記録を抹消し、誰からも認識されない存在となるのだが、それでも「ずっと一緒にいる」という意思を拠り所にして生き続けることを選ぶ。報われぬ片想いを回りくどく大掛かりに謳い上げたと言えなくもない。

 人を選ぶカルトアニメであることは間違いないし、ぶっちゃけ然程面白くもない。ただ、不気味で不安を煽る独特の雰囲気や、視聴者の立脚点までもぐらつかせるような実験的映像は、今時の萌えアニメに慣れた者には新鮮な驚きをもたらしてくれるだろう。一見の価値ある怪作である。

[百合の分類]2-5.偏愛

 

ユリ熊嵐(2015)

 全12話。

 オリジナルアニメ。監督は幾原邦彦、制作はSILVER LINK.。キャラクター原案は前回記事を書いた『瑠璃色の夢』の著者・森島明子

 「スキを諦めなければ世界は変わる」という主張は過去作と通底する。世界観は『ピングドラム』から更に進展し、何者にもなれない者たちが、悪の選別と排除による集団の防衛という第三の生存戦略を無意識的に講じて「透明な嵐」として君臨している。言わば「こどもブロイラー」の内面化であり、透明な存在として場の空気に意思決定を委ねることで実存不安を回避しているのだ。しかし同時に、「断絶の壁」の向こう側とは絶えず緊張状態にあるし、こちら側でも周囲から浮いた異質な言動を取ると「排除の儀」によって疎外されるという恐怖に常に晒されている。本作は、そのような同調圧力の構図を個人が一気に変えることは難しくとも、「スキ」を貫くことでゆっくりとでも変革の連鎖を起こしてゆけるのだという希望を示す。最終話、紅羽と銀子は「約束のキス」を交わして現世から退場するが、その瞬間を目撃した亜依撃子とメカこのみの間で新たなスキが芽生える。実際に「世界はあなたのスキで目覚め変わってゆく」ことを見せ、この物語は「あなた」の物語ですよと視聴者に投げ掛けることで、『ウテナ』の劇場版でも部分的に示されていた脱出の継承という思想がより鮮明に伝わってきた。

 愛の様々な形を、3話毎に交代する敵によって表現するという構成が秀逸だ。透明な嵐に上手く乗っかりつつ、その場のノリと利己的な欲望に衝き動かされる百合園蜜子。完全には透明になりきれず、実際は承認を求めていた針島薫。相手を己の理想のまま留めておくことが叶わず、ひたすら心の空虚さを埋めようとし続けた箱仲ユリーカ。そして、自覚的に思考停止し透明であり続けることを選択した大木蝶子。彼女達は皆「本物のスキ」を見つけることは出来ない。嫉妬や傲慢といった罪を認め、醜い自己を破壊しなければ「約束のキス」は交わせない。ここまで多角的に愛を描いてきたからこそ、そんな当たり前すぎて残酷なことを躊躇なく言い切ってのけるだけの物語強度を生み出している。

 そして百合である。しれっと人物紹介に表示される「ユリ」の二文字に呆気に取られ、肌色まみれのユリ承認や濃厚に絡み合うユリアムールに笑いを誘われ、実は直球で百合恋愛を描いてくるところに胸を打たれる。特に、るるの一途な片想いには思わず涙してしまう。「私はスキを諦めない、キスを諦めます」というるるの台詞には、これ以上に美しい片想いの表現があるだろうかと感嘆させられた。るる可愛いよるる。

 1クールと短く、前2作に比べて寓話としての抽象度が高かったせいもあって、思想が凝縮されて破壊力抜群になっている。耳に残る独特の決め台詞はますます磨きが掛かり、ケレン味溢れる演出や、映像にぴったり嵌った音楽も絶好調。示唆に富む社会批判と濃密な百合の詰まった異色の傑作。

[百合の分類]1-3.自覚と告白 他

 

輪るピングドラム(2011)

 全24話。

 オリジナルアニメ。監督は幾原邦彦、制作はBrain's Base。

 「愛も罪も分け合って運命を乗り換える」という発想は基本的に『ウテナ 』から引き継がれたもの。ただ物語の構造はやや複雑になり、主題も世界からの脱出よりは小さな共同体の防衛という色彩が濃い。殆どの登場人物は過去のトラウマを引きずって自己を肯定できずにいる「きっと何者にもなれない」者だ。そのうち多蕗とゆり、それに苹果は、自分達にとっての「永遠のもの」である桃果を取り戻そうとする『ウテナ』的人物である。一方、高倉兄弟や真砂子は最初から「永遠のもの」なる幻想が失われた時代に生き、代わりに「15年前の呪い」に支配されている。それは即ち、かつて「世界の果て」が主張したような、柩の中で生きながら死ぬという生存戦略不在の生き方はもはや不可能だと、予め自覚されているということだ。彼ら彼女らが何者かになるためには、運命の果実を一緒に食べるという「救い」を目指すか、いっそ世界を破壊してしまえという「呪い」の手に落ちるかという、いずれかの生存戦略を選択せねばならない。更に「救い」により運命を乗り換えるためには自己犠牲という代償も要求されるが、これによって絆で結ばれた小さな世界を守ることは出来る。極めて過酷な、現代を言い表した世界観である。

 感心したのは、桃果と眞悧が同じ風景を見ていたという箇所だ。何者にもなれないという悲鳴に満ちた世界への応答という意味で、救いと呪いは同根の存在なのだ。直情的に善悪を切り分けるのではなく、かと言って結局どれも偽善に過ぎないと冷笑的になるのでもない、透徹した批判精神が発揮されている。また、本作は明らかに地下鉄サリン事件を題材としているものの、眞悧やピングフォースは現実の人物・団体からは大きくかけ離れた描き方をされている。それにより、上記のような呪いの構造は、かえって鋭く事件の本質を言い当てているのかもしれないと思わせられる。上手い料理の仕方だ。

 百合的には、何と言っても第15話「世界を救う者」が神回。ゆりと桃果の過去が回想されるのだが、二人の心の交流が少しずつ深まってゆき、「灰色の水曜日」を流しつつ病室のラストシーンに至るという流れが大変美しい。激しく打ち付けられる鑿の音、父親の台詞で突然BGMがぶつ切りになるなど、音響演出も冴え渡る。前話から続くゆりが苹果を襲う場面もエロい。百合要素はこの辺りにしかないにも拘らず相当な存在感を放っており、この回のためだけに全話鑑賞する価値はある。また、最後に陽毬と苹果の二人が残されるのなら、途中もっと百合百合な描写を入れて欲しかったが、晶馬を取り合っている割には不穏さが抑えられていたとは思う。

 現時点で幾原作品の中では一番好き。思想先行で物語性に乏しい作風であるが故に、多視点の物語が一つに収斂してゆくという群像劇の手法が合っているし、お家芸バンクシーンの映像的快楽は他の追随を許さない。やくしまるえつこのOP「ノルニル」「少年よ我に帰れ」も世界観に合っていて良い。こういう革新的なアニメこそもっと観てみたいと切に願う。

[百合の分類]2-5.偏愛(脇筋)

 

少女革命ウテナ(1997)

 全39話、映画1本。

 オリジナルアニメ。監督は幾原邦彦、制作はJ.C.STAFF

 本作に限らず幾原作品は難解だと言われることが多いが、ストーリー自体は割合に単純だ。それを難しく見せているのはシュールな演劇調の演出であり、真に難解なのは幾重にも張り巡らされたメタファーの解釈である。

 主題は「殻を破る」「世界を革命する」即ち「いかに既存の規範から自由になるか」。最終話、ウテナはアンシーの心の殻を破るという形で世界を革命して学園から姿を消し、アンシーがウテナを見つけに自ら学園を出て行く。それは暁生の世界から心身共に脱出するということであり、王子様がお姫様を救って幸せになるというジェンダー規範から解放された対等な関係を結ぶということでもある。ウテナが王子様としてアンシーを救う方がすっきりした結末にはなっただろうが、それではアンシーの支配者が暁生からウテナに交代するだけで、権力構造は維持されてしまう。作り手が決して妥協せず、伝えたいテーマを貫き通していることが窺える。

 ただ、劇場版『アドゥレセンス黙示録』において、二人の行く手に新たな城が聳え立っていることが示しているように、殻を破って行き着く先も元いた学園と同じ閉塞した世界、「世界の果て」でしかないのかもしれない。しかし、それでも二人は自分たちの意志で外へ出ることを選択する。現状を維持しようが打破しようが結局何らかの制約や束縛を受けるのだと引き籠るのではなく、同じように世界に違和感を覚える共犯者を見つけて一緒に新天地を目指せというわけだ。この「愛する人と世界を革命する」という思想は他の幾原作品にも共通して見られる。

 このように、本作は「いかなる愛なら可能か」といったところを追究しており、ウテナとアンシーもその象徴という側面が強く、簡単に百合と言ってよいものか躊躇われる。2人の関係性が作品の核心であるのは確かだが、TVシリーズ全体を通して見ると百合な絡みは決して多いとは言えない。樹璃の枝織への想いも全く報われないし。ところが劇場版では、一転してウテナとアンシーの百合度が急上昇する。ベッドに入っていやらしい手つきで撫で回したり、唐突に二人で踊り出したり、ヌードモデルをさせたり、最後には疾走しつつ全裸で絡み合って濃厚なキスを交わしたりと、自分でも書いていて一体何やねんこれはと脱力するほど百合ん百合んな映像のオンパレード。やはり百合を語る上では外せない作品の一つであろう。

 正直に言うと、TVシリーズ序盤はさほど面白いとは感じられなかった。毎回似たような決闘の連続で飽きてくるし、ウテナは無邪気な善意を振りかざしているだけのようにも思えたからだ。しかし、終盤に近付くにつれて真相が明らかになり、加速度的に話に引き込まれていった。物語を大胆に再構成しつつ主題を掘り下げた劇場版も素晴らしい。アニメーションという媒体を活かしきった傑作。

[百合の分類]2-3.シェルター/1-4.駆け引きと対話(脇筋)

 

ガールズ&パンツァー(2012)

 全12話、OVA1本、映画1本。

 オリジナルアニメ。監督は水島努、制作はアクタス

 徹頭徹尾、迫力ある戦車戦を楽しむための作品である。散りばめられた美少女キャラクターはオタクを釣り上げるための入口、実力者に率いられた弱小校が強豪校を打ち破るという王道ストーリーは分かりやすくカタルシスを与えるための道具立てに過ぎない。作り手の「これがやりたい」「これを見せたい」という熱意を全面に押し出しているからこそ、これでもかと繰り出される戦闘描写に心躍り、ぐいぐいと引き込まれる。特に劇場版は尺の4分の3が戦車戦で占められ、凄まじく純度と密度の高いエンターテインメントに仕上がっている。

 そういうわけで、百合成分はほぼ皆無。心情や関係性は大して掘り下げられず、盛り上げるための要素の一つとして扱われている。一応、劇場版ではみほとまほの姉妹百合、麻子とそど子の遣り取り等が補完されているし、仲間の犠牲に救われ独りで戦おうと力んでいたカチューシャと、急造チームでチームワークなど取れるかと鼻で笑っていたエリカが、見事な連係プレーで敵戦車を撃破した場面にはいたく感動させられた。ただ、いずれも人間的成長という側面が強調されており、百合として萌えるだけの関係性を築けているかは疑問。同人の燃料としては使えるという程度だろうか。個人的にガチだと思えたのは、みほしか目に入っていないまほを見てしょんぼりと項垂れるエリカくらいで、やはり逆方向の矢印が弱いのが如何ともし難いところだ。

 百合の有無はさて置くとしても、娯楽作品として非常に優秀かつ濃密であることは確かだ。立川シネマシティの極上爆音上映や4DX上映といった、映画館に足を運ぶことに価値を生み出す売り方も本作の強みを上手く活かしていた。「ガルパンはいいぞ」と言わざるを得ない。

[百合の分類](4,5)-SC

 

咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A(2012)

 全16話。2009年放送のアニメ『咲-Saki-』の第2期。

 原作は小林立咲-Saki-』の外伝である、五十嵐あぐり作画の同名漫画。監督は小野学、制作はStudio五組

 原作『咲-Saki-』は単なる萌え漫画ではない。チームが一丸となって麻雀という名の異能バトルを戦い抜く、王道ド直球の熱血スポ魂なのだ。そのチームの団結力の源泉の一つとなっているのが、選手同士の百合である。あの子のため、みんなのためという想いが、少女たちを強くし、そして成長させる。燃えと萌えがふんだんに詰まった唯一無二の青春百合漫画なのである。

 本作にも分類で言えば絆系の百合描写が数多く見られる。旧友との再会、師のためのリベンジといった強い意志が物語を動かし、勝利への道筋を付ける。また、主人公側だけでなく対戦校の選手の心情や関係性もしっかり描いており、無尽蔵のカップリングで無限に百合妄想を膨らませてくれる。

 そして何よりも、第9~12話の全国大会準決勝第一試合先鋒戦が最高だ。立ちはだかる最強の敵を、チームメイトに託された思いを乗せて打ち破るという試合展開がとにかく熱い。特に千里山女子の園城寺怜の闘牌は涙なしには観られないだろう。この4話のためだけに全話鑑賞する価値はある。

 また、五十嵐あぐりではなく小林立の絵柄で映像化しており、漫画の単なるアニメ化に留まらずアニメとしての独自の存在価値を生み出している。効果的なメディアミックスという点からも評価できる作品である。不満な点があるとすれば、千里山女子のCVであるStylipSメンバーの関西弁はとても聞けたものではないのだが、OP曲「MIRACLE RUSH」「TSU・BA・SA」は素晴らしかったので許容範囲内としておこう。全国大会準決勝以降のアニメ化にも期待したい。

[百合の分類]2-4.バディ