映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて(2019)

 監督/田中裕太、脚本/田中仁、制作/東映アニメーション

 TVシリーズ『スター☆トゥインクルプリキュア』の単独映画。『Go!プリンセスプリキュア』『映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!』に続き、タナカリオン&タナジンの最強タッグが放つ三度目の傑作。

 70分という尺の中で一つとして無駄なカットがない、完璧に計算し尽くされた凄まじい密度の構成。ユーマが徐々に感情豊かになってゆくことや、ヤスール火山が星の核まで繋がっているという台詞、そして何よりも「ながれぼしのうた」など、後になって実は全てが伏線だったと気付かされる。さらに、激しいアクションと濃やかな心理描写のメリハリが効いた演出、12星座のドレスで水モチーフの合わせ技といった視覚的快楽の強いデザイン、美しい音楽や美術など、あらゆる要素が申し分なく仕上がった完全なる総合芸術。しかし、本作を真の傑作たらしめているのは、その重厚かつ重層的なテーマ設定である。

 

 本作のゲストキャラクター・ユーマは「星の子」であり、関係を持った人・モノから強い影響を受けてしまうという性質を持つ。プリキュアである星奈ひかるや羽衣ララとユーマが交流し、各々が成長・変化してゆく過程から、様々なメッセージを読み解くことができる。ここでは、ユーマの「子」「星」そして「他者」という多面性に着目し、それぞれどのようなテーマが内包されているか考えたい。

 まず、「子」としての側面に着目すると、「育児」というテーマが浮かび上がる。ひかるとララが一夜を共にした(!)後にユーマが出現したことや、成長したユーマがひかるとララ(とフワ)が織り交ざったような容姿で登場することから、かなり明示的にユーマはひかララの子どもとして表象されていると言えよう。尊いルン。それによって、ユーマとの交流は、ユーマを育てる行為と限りなく近接することになる。

 ユーマへの接し方は、ひかるとララとで大きく異なる。ひかるは、ユーマが加害行為に及ぼうとした時はきちんと叱りつつも、基本的には好奇心の赴くまま肯定・称賛し、将来の選択においてもユーマの自由意志を尊重しようとする。それに対して、ララはユーマを心配する余り声を荒げたり、過保護になりすぎてユーマの行動を制約しようとしたりしてしまう。最終的には、ひかるがララを諭すことで、パターナリズム的な干渉が否定され、子どもの自己決定権の重要性が強調される。

 ただ、留意しておきたいのは、ララの不安は宇宙ハンターの出現という形で見事に的中した一方、ひかるはハンターのUFOを目撃しても「キラやば~☆」とはしゃぐのみで、警戒するララに窘められているという点だ。ひかるの好奇心もララの警戒心もそれだけでは不十分で、対照的な二人が足りないところをお互い補い合ったからこそ、あの結末に辿り着けたのである。尊いルン……

 また、ユーマの星がひかるたちと見た景色の継ぎ接ぎのようになっていたのは、ひかるのイマジネーションがユーマの血肉になり継承されていることを示している。いくら自由を尊重すると言っても、どうしても育つ環境によって選択肢が限られてくるのは否めない。そのため、なるべく多様な意見や経験に触れさせ、少しでも多くの可能性を想像できるようにすることが、子どもが“なりたい私”を自由に描いてゆく上で必要なのである。

 仮に、自己決定権が侵害され、イマジネーションが歪んでしまうと、劇中でユーマが「危険な星」になったように、子どもも心を閉ざしたり、道を踏み外してしまったりするかもしれない。ただし本作は、そこで親の責任について教条的に説教するだけで終わるような愚は犯さない。ひかるとララが歌に乗せて想いを届け、ユーマは再び心を開くのだ。かつて星奈母がひかるに歌い聴かせた「ながれぼしのうた」が、今またユーマへ受け継がれるという世代を越えたイマジネーションの連鎖もまた心憎い。たとえ育児で失敗したように思えても、親が子に伝えたイマジネーションは心の宇宙で確かに生き続けており、きっと何度でもやり直せる。

 プリキュアの映画は子どもだけでは観に行けず、彼女ら彼らを引率する親も大勢鑑賞することになる。本作は、そうした親たちの子育てに追われ振り回される苦痛に寄り添いつつ、子どもにとって本当に大切なことは何なのか、そのために自分たちが出来ることは何なのか考えさせる契機も与えてくれる、きわめて良質な育児ものなのである。

 次に、「星」としての側面を見てみよう。バーンの悪意を受けてユーマが「危険な星」になってしまう一幕は、人類の経済活動による地球環境の破壊を強く想起させる。ハンターらの欲望に晒され混乱し暴走するユーマの姿は、昨今頻発する異常気象そのものだ。短期的な利益に目が眩み環境を破壊してゆけば、いずれは私たちの暮らしも脅かされ長期的には立ち行かなくなってしまう。このように、「環境問題」に警鐘を鳴らすというのも本作のテーマの一つである。

 環境問題は、単に美しい地球が傷付くといった情緒的なものではなく、そこに住む人間を含む全生物を巻き込む現実的な事象である。地球の未来に思いを馳せることは、そのまま自分の子どもたち、すなわち将来世代について考えることに直結する。そこで、ユーマが「子」性と「星」性を併せ持つことや、ユーマと一緒に地球各地を見て回ったことが活きてくる。子どもたち、あらゆる生物の命、美しい自然や風景の数々、そして地球そのものが、「Twinkle Stars」の映像の力も相まって混然一体となる。それによって、目の前の誰かと出逢えた奇跡への感謝が、命の息づく星の奇跡への感謝に自ずと結び付き、この星の行く末は我々のイマジネーション次第だという使命感が湧いてくるのだ。決して押し付けがましくなく、環境問題を身近で具体的なものとして実感させる仕掛けは、見事という外ない。

 そして、ユーマは相互理解が困難な未知の生物、「他者」だということも押さえておきたい。ひかララとユーマの関係は、親と子、人と星といった垂直的なものに留まらず、「他者」同士の対等なものであった。他者と対話し理解に努め、その価値観を尊重するイマジネーションの大切さは、TVシリーズ本編で再三描かれてきたものである。本作はそれを改めて確認した上で、逆に子どもや星さえも「他者」であると認識することが、真の「多様性」の実現には必要不可欠だと提起しているように思う。

 前項で、子どもから地球まで、ありとあらゆる存在が結び付いて意識されることを指摘した。「子」「星」であるユーマが「他者」でもあるならば、同様にそれらの全存在も「他者」と見做すべきだという発想に繋がる。そもそも子の自己決定権も、子を親の所有物ではなく固有の人格や意思を持った個人、「他者」として尊重していることで成立するものだ。また中身に幾らか差はあるものの、動物の権利や自然の権利といった概念も存在する。動植物や無生物に意思はないではないかという反論もあるだろうが、単に現在の人間には意思と認識できないだけで、広い宇宙には遥かに多様な意思の様態が存在することは十分に考えられる。ただ、より肝要なのは、たとえ十全に理解できないものであっても、対等な価値を有するものとして尊重しようという姿勢こそ、イマジネーションの本領であるということだ。解らないからこそ認め合う、そうした素直な在り様が何よりも大切なのである。

 このように、本作は「育児」「環境問題」という二つの小テーマ、それらを包含する大テーマとして「多様性」を取り扱っていると解釈できる。なお、「育児」は前作『HUGっと!プリキュア』、「環境問題」は次作『ヒーリングっど♥プリキュア』のテーマでもあるため、なんとプリキュアシリーズ3年分のテーマが凝縮されているということになる。さすが2010年代最後にして令和最初のプリキュア映画、今・ここの問題意識を余さず盛り込んでいるのだ。キラやば~☆

 

 ところで、プリキュア映画では長らく、観客がミラクルライトを振って応援することでプリキュアに力を与えるという、第四の壁を破った演出がなされている。このメタレベルを含めて考えることで、他にも特筆すべき視座が立ち現れてくる。

 劇中、フワがミラクルライトを振るよう呼び掛ける場面は二つ存在する。中盤の対宇宙ハンター戦と、終盤の「Twinkle Stars」だ。前者はハンターらと戦うプリキュアを応援するという、通常想定される通りの使い方だ。対して後者は、歌い踊るプリキュアに呼応するように、まるでアイドルのライブでペンライトを振るかのごとく使用される。二つの行為は一見全く異なるが、実は共通する性質も多く含まれる。それぞれプリキュアと観客の行動に分けて考えてみよう。

 プリキュアが戦う理由は、TVシリーズではフワを、本作ではユーマを守る、つまり大切なものを守るためである。基本的には、大切なものが危機に瀕することで、危機の要因を排除する手段として実力行使がなされる。一方「Twinkle Stars」は、ユーマに想いを届け、ユーマの声を聴くため、すなわち対話の手段として歌われる。プリキュアにとってユーマときちんと対話することが「大切なもの」であり、それが不可能な現状を打破するために歌い踊る。つまり、戦うことと歌うことはいずれも大切なものを守りたいという祈りの行為であり、戦闘少女もアイドルも本質的には同一の存在なのだ。さらに言うならば、大切なものを守るとは、何かを大切だと思う自分自身を肯定し、大切なものを守れる自分になるということである。ここにおいて、戦闘少女ものとアイドルものは、少女の自己肯定・自己実現の物語(すなわち「変身少女もの」)として統合されるに至るのである。

 対して、観客がミラクルライトを振るのは、応援するためだと纏めてよいだろう。中盤の戦闘時に応援するのは、ユーマを守りたいという動機に共鳴しているというのももちろんあるだろうが、むしろプリキュアが敗北し膝を突く姿を見たくない、戦って勝つ姿を見たいという純粋な願いによるところが大きいと思われる。「Twinkle Stars」でも同様で、観客はユーマとの対話を望むといった理屈を超えて、歌い踊るプリキュアの姿それ自体に魅せられ、昂る感情に衝き動かされて暗黒に光を灯すのだ。したがって、少女が「変身」を果たさんとする瞬間のキラめきこそ、心から応援したいと我々に思わせるものの正体だと考えられる。

 一般社会においては、アイドルは疑似恋愛に過ぎないというような単純な論調が根強く、実際にそうした狙いの商業展開や、その種の目的で行動するオタクが数多く存在するのもまた事実だ。しかし、アイドル、もっと広く言えば「推し」に対するオタクの感情には、そのような一対一の恋愛(特に異性愛)の文脈では狭すぎて取り零してしまうものが多く存在すると思う。それはたとえば、オタクが「尊い」、ひかるが「キラやば」と呼ぶような、存在の全肯定ではないだろうか。少女の実存を賭した戦い、その眩いキラめきを目の当たりにして、この世界に存在してくれてありがとうと噛み締める。そのような奇跡への感謝こそ、人がアイドルを応援する真情の核なのだ。そう本作は雄弁に物語っているように思えてならない。

 ついでなので「Twinkle Stars」について付言したい。TVシリーズではこれまでも、マオの歌にプルンスが元気を貰ったように歌の持つ力が語られてはいたが、この映画ではより明確に、歌は人と人、そして星々を繋ぐイマジネーションの力に溢れているということを表現している。変身時に「スターカラーペンダント!カラーチャージ!」を歌うのも、そもそも歌とはイマジネーションそのものだから奇跡を起こせるのだという説明が成り立ち、結果的に思わぬ形で映画の伏線になりつつ、「イマジネーション」という作品全体のテーマをより深化させている。それまで単なる演出として片付けられていた変身バンクが、実は作品世界を貫徹する論理的帰結であったと再定義される衝撃。この異化効果はまさしくSFの醍醐味だ。

 超新星爆発やファーストコンタクトといった道具立ての時点で、SFとしての面白さは十二分に保証されている。しかしそれ以上に、作品設定を開示することで、それ以前の出来事は何もかも設定に即した必然だったのだと認識が書き換えられ、さらにその設定自体が一つのテーマを表現していることに気付かされるという、二重三重にそれまで見ていた景色を一変させてしまうような大仕掛け、そんなセンス・オブ・ワンダーこそが、本作の“強い”SFたる所以である。

 

 最後に、ひかララについて。二人で力を合わせて困難を乗り越え絆を深めるというような、他の多くの百合ものにありがちな物語とは、本作は様相を異にする。既にTVシリーズで強固に関係性が組み上がっているのを前提とし、子作りや子離れといったその先の物語が紡がれているのだ。この二人が「二人」になる過程ではなく、この二人がこの「二人」でなければならない理由を描いたことで、本作の百合は文字通り大気圏を突破しているのである。尊いルン!

 しかしながら、そんな二人が一緒にいるのは、プリキュアとして戦う上での一時的なことに過ぎない。いつか二人に別れが訪れることは、それまでTVシリーズの折々で示唆され、その後実際に描写されることになる。その事実は、本作では一切言及されないものの、むしろだからこそいっそう濃く暗い影を落としている。激しくユーマとの別れを拒むララに、いずれ来るひかるとの別れが全く念頭になかったとは思い難いし、我々はどうしてもそうした文脈を読み込んでしまい、胸を締め付けられながらも見守ることしかできない。結局、ララは一番大事なのはユーマの気持ちだと納得したが、それならばひかるとの関係については果たしていかなる答えを出すのか、思いを巡らさずにはいられないのだ。絶対的な信頼で結ばれながらも、常に終わりの予感が付き纏う、そんな安定と不安定の同居した二律背反の緊張感が、ひかララという関係性の特質だ。

 ちなみに、どのようにララがひかるとの別れを受け入れたのか、実はTVシリーズ本編中に具体的な描写はない。なんと2月に開催された「スター☆トゥインクルプリキュア感謝祭」キャラクターショーにおいて、初めてその胸の内が明かされるのだ。未見の方は是非とも7月発売のBlu-ray/DVDを購入されたい。

 

 さて、ここまで本作のテーマ性、アイドルやSFといったジャンル性、そして百合について語ってきたが、やはりどれだけ言葉を尽くしても、この綺羅星のような映像作品を表現しきることは不可能だ。それでも、自分の中にある「キラやば」を論理的に解きほぐし順序立てて説明しようとするのは、決して無意味なことではないと思う。理解しようとすること、理解してもらえるように歩み寄ること、その大切さはとっくに教えてもらっているのだから。

 最高の百合SF冒険少女ファンタジーはここにある。物語の力を信じている全ての人に、想いをこめて。


[百合の分類]2-2.パートナー