魔法少女まどか☆マギカ(2011)

 全12話、総集編映画2本、続編映画1本。

 原作なしのオリジナルアニメ。監督は新房昭之、制作はシャフト。

 蒼樹うめの可愛らしいキャラクター原案と虚淵玄のシリアスかつハードな脚本とのギャップで話題を集めた。「魔法少女もの」のお約束を打ち破り、既成概念を破壊するという構造は『新世紀エヴァンゲリオン』と類似している。

 

 論評の前に、見田宗介大澤真幸による戦後精神史の区分を用いて、アニメ史を簡単に概観してみよう。「大きな物語」が機能していた「理想の時代」、それが失効し代替としての虚構が支配した「虚構の時代」が終焉したことで、『エヴァ』以降のセカイ系が台頭した。近景と遠景を直結させることで、身近な個人の実存の問題を扱いつつも壮大な物語を構築し、物語ることの説得力を担保した一方、どこまでも深く内面へ潜ってゆく引きこもり的な心性も生み出された。その反動として出てきたのが、とにかく行動しろ生き残れという決断主義であり、いやいっそどこまでも近景に埋没して現実逃避しようぜという日常系であった。いずれも物語性を無視・放棄することで物語ろうと試みたのだ。そして本作は、現実なんてそう甘いもんじゃない、どんなに頑張っても祈りは呪いを生み希望は絶望になるんだという容赦ない世界観によって、決断主義も日常系も一刀両断し全てを振り出しに戻した感がある。

 『まどか』の新しさは、セカイ系的な様相を纏いつつも実は全く異なる想像力を提示した点にあると思う。確かに、まどか魔女化という地球の危機は存在したが、インキュベーターの宇宙規模の視点で見れば大したことではない。また、ほむらの積み重ねた時間が結果的にまどかの祈りに力を与え世界改変へと至らしめたのだが、まどかに出来たことは世界を救うのではなく、世界システムを僅かに改善することだけだ。主人公とヒロインの関係性は、もはやセカイを左右するほどの大きなものではなく、何とか頑張って世界が少しでも好い方へ向かうように努力することくらいしか出来ない小さなものに過ぎない。個人とセカイの二項対立から脱却し、個人は巨大なシステムの内部に存在し一部として働き掛けるしかないという世界観も、現代グローバル社会に対応したものとなっている。

 また特筆すべきは、物語を失った現代において、いかに物語性を回復せんとしているかだ。まどかは、地域や時代を越えた全人類の救済という「大きな物語」によって、身近な魔法少女の希望を絶望で終わらせないという「小さな物語」を叶えた。これは、近景が遠景を呑み込むセカイ系のように見えて、遠景を改革することで連続的に近景の問題も解決してしまおうとするという逆転の発想である。セカイ系のメタと言われる所以である。肥大化した自意識の不安ではなく、普遍的な希望を叶えようとする願いによって世界を革命したことで、本作は公共的価値のある物語として成立することができた。だからこそ、どんなに残酷な世界でも希望を信じ抜き変えてみせるというまどかの決意表明は、これ程までにわたしたちの胸を強く打つのである。

 

 そして、続編である劇場版『[新編]叛逆の物語』によって、再び物語は裏返される。ほむらはまどかの実存的幸福を取り戻すために、まどかが普遍的希望によって作り出した世界を破壊した。ここに至って公と私という対立軸が再び蘇る。しかし、ほむらは単に己の欲望のまま行動したわけでなく、ひたすら一人の人間としてのまどかの幸せを守ろうとしているのだ。欲望と秩序の対立、個人の権利と公共の福祉の衝突を見せつけられ、TVシリーズでまどかの自己犠牲に賛辞を送った全員が何とも言えぬ後味の悪さの中に放り込まれる。

 なおかつ、ほむらが世界を書き替えてインキュベーター支配下に置いたことで円環の理が乗っ取られるのを未然に防げたのだし、さやかやなぎさも生き返ることが出来た。世界は滅亡するどころか、むしろ好い方へ向かったのだ。それなのに、ほむらは「悪魔」として孤独に佇まざるを得ない。これまで近景に埋没し中景から目を逸らし遠景を呑み込むことを単純に「悪」と切り捨ててきたセカイ系批判に対し、真っ向から批判を返した形だ。ただ、「じゃあ結局どうすればいいのか」という結論は出されていない。願わくば、ここから更に一歩先へ行く想像力を、『まどか』の続編で見てみたいものである。今後の展開に期待したい。

 

 さて、肝心の百合だが、友愛の延長線上にある描写が散見する程度だろうか。TVシリーズにおけるほむまど・杏さや的要素が二次創作で強化され、『叛逆』に逆輸入され公式CPとして定着したという流れは興味深い。だがそれだけの話だとも言える。わたし自身は関係性の移り変わりや心理的な駆け引きを楽しむ派なので、そうした恋愛物語もそこそこに公式CPを作られるとちと興醒めする。百合成分は二次創作で摂取すれば充分かな、という感じ。 

 いずれにせよ、傑作であることに変わりはない。観て損はない神アニメだ。

[百合の分類]2-5.偏愛

 

百乃モト『宝石のようなもの』(2016)

 短編11本。商業・同人から再録した同人誌。

 少女漫画的な繊細なタッチの絵柄で、揺れ動く感情を丁寧に描き出している。切ない片想いが多く、両想いでも両者の擦れ違いやぶつかり合いをしっかり見せてくれる。学生百合だけでなく作者の得意とする社会人百合もあり、バランスの取れた短編集だ。

 作者の既刊『キミ恋リミット』『レイニーソング』と内容的に繋がっている作品があるが、これ単体でも充分に楽しめた。特に、前後編で構成される「エッちゃんとマイちゃんの恋模様」が出色の出来。片想いが実を結ぶまでを描いているのだが、単純なハッピーエンドでなく、今後どう転んでゆくのか分からない不安感を残し余韻のあるラストに仕上がっている。現時点での短編百合漫画私的No.1作品。

 幼馴染のナツミに想いを寄せるよっちゃんを描いた「バスタイム」には、胸が成長したナツミを「えろぃ」と言うよっちゃんに対し、「あたしはよっちゃんのがエロぃと思う」とナツミが言い返す場面がある。胸という記号的な性的魅力よりも、秘めた恋心から自然と滲み出る色っぽさの方がずっと「エロぃ」。この短編集は、そうした透明感のある色っぽさに溢れている。

[百合の分類]1,4-S

 

百合の定義

 百合好きと自称して記事を書くからには、まず百合とは何たるかの定義をしておこうと思う。もちろん人それぞれの定義が存在し、論争が絶えないことは承知しているが、ここではあくまでも個人的な考えを書くことにする。

 

 「百合」とは、女性同士の何らかの関係性、及びそれを描写する作品・ジャンルを指す言葉である。「百合」を扱った描写は、以下に挙げる3つの方向性に分類することができる。

A.身体的接触

 やたら抱き着いたり胸を揉んだりキスしたりといった、過剰なボディタッチや濃厚なスキンシップを中心に描いたもの。かわいい女の子同士がきゃっきゃうふふ、いちゃいちゃべたべたとじゃれ合う様子に萌えることが主眼であり、内面描写にまで踏み込まない場合が多い。

B.精神的つながり

 相手を何らかの形で意識したり、特別な感情を抱いたりする様を中心に描いたもの。恋愛に限らず、友愛、姉妹愛、家族愛、師弟愛、敬慕、憧憬、信頼といったピュア百合から、羨望、嫉妬、独占欲、嗜虐心、敵愾心、憎悪、殺意といったドロドロ百合まで、ありとあらゆる感情や欲望が含まれる。お互いに無関心でさえなければ、双方向でも一方的でもよい。「百合は精神的なもの」的な言説が想定しているのは大体これ。

C.恋愛・性的関係

 女性同性愛、レズビアン、ガール・ミーツ・ガールを主題的に描いたもの。キスもセックスもあり、もしくはいずれその種の行為を含んだ関係に至ることを前提とする。恋愛感情の有無を問わない、体だけの関係もこの区分に入れておく。

 

 もちろん、全ての百合が以上の3つのどれかに明確に分けられるというわけではない。森永みるくGIRL FRIENDS』等の古典的な百合漫画では、恋心の萌芽や擦れ違いといったBに該当する段階から、両想いになってからのCに該当する段階への移行が描かれる。タチ『桜Trick』はBやCの要素も含まれるが、それ以前に「とにかく女の子同士のキスをたくさん見たい」というAの方向性に特化した作品だと言える。キスだけに。

 明確な線引きができないのならば分類することに意義はあるのか、と思われるかもしれない。しかし、たとえば「甲は友達感覚でよく乙に抱き着いているが、その度に乙はどきどきして甲を意識してしまう」といった場合、単純ないちゃつきに萌えるのであればA、乙の揺れ動く心に萌えるのであればBを指向していると言える。このように、作品自体の分類というよりも、どういう百合が好きなのかという自らの萌えポイントの把握に便利なのだ。

 従来の百合の定義に関する議論は、「これは百合だ」「いや違う」という不毛な論争に終始していた。それは、どこからどこまでが百合なのか、前提が共有されていなかったからだ。だが、「この描写は百合Aだが、わたしの好きなのは百合Bの方だ」「自分にとってはCのみが百合だが、AやBも百合と感じる人はいる」といった認識の仕方をすることで、もっと建設的な議論が可能になるだろう。

 つまり、『響け!ユーフォニアム』の久美子と麗奈は、お互いを特別な存在と認めているというB的な意味で百合なんです。あいつらどっちも男好きやん百合ちゃうやろという意見はあくまでもC的観点であって、わたしはBで萌えているんです!!(これが言いたかった)

 

 いくつか追記。

 しばしば「百合とレズの違い」が取り沙汰されることがあるが、それが的外れな議論であることはお分かり頂けるだろう。そもそも百合はジャンルであり、レズビアンは個人の性的指向だ。では百合はレズビアンを描いたマイノリティ文化かと言うとそうでもなく、そこで描かれる女性は別にノンケでもいいし、バイセクシュアルやアセクシュアルでも構わない。A~Cのどれかに該当すれば百合と言えるのだから。なお、この程度のセクシュアリティ用語は、百合を云々するならば必ず知識として押さえておくべきだと思う。

 また、ここで言う「女性」とは、性自認が女性の人間であるとする。つまり、男の娘や女装男子は百合に含まない。個人的にはね。含みたい人はDとか作って勝手にやって下さい。

 じゃあそもそも「人間」って何よ、というツッコミも来るかもしれないが、さすがにそこら辺は適当でええやろ。伊藤ハチの獣耳とか好きです。

 

 定義もっとこうしたらいいと思うよ~とかあればコメント下さい。

 

 改訂版の記事はこちら。

yuri315.hatenablog.com

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