はじめに

 このブログは、これまでに鑑賞した中でとりわけ気に入った作品や気になった事柄について、感想やら批評やらをつらつらと書き連ねるものである。対象とする作品は基本的に完結した漫画アニメ、時々小説、ジャンルとしては特に百合を好む。感想もそれなりに偏ったものになったり、ならなかったりする。

 目的は自分の思考を言語化することによる整理、有体に言えば自己満足。なのでちょくちょく記事を書き替える。異議や不満は特に受け付けない。ただし、「こう考えたらどうか」「これも読んでみてはどうか」といった建設的な意見は大歓迎。もしも記事を読んで趣味が合うなと感じたのであれば、ぜひ貴方のおすすめも教えて頂きたい。

 なお、基本的にネタバレ全開なので、閲覧に際しては注意されたい。作品の発表年は、書籍は1巻目初版の発行年、アニメは放送開始年・公開年としている。また、記事中では独自に定義した百合の分類を用いている。詳細は下のリンク先を参照してほしい。

yuri315.hatenablog.com

 百合の市場規模っていまいち大きくないらしいので、ここ見て百合好き増えてくれないかなぁと思っていたり、思っていなかったり。

 

書きたい記事

 ある程度まとまった文章を書くのに時間が無限に掛かり、書きたい記事がなかなか書けていない。自分の過去の記事も、今読むと稚拙な点が多すぎて丸々書き直したかったりもする。まあ自己満足のためのブログなので、気楽に書いていきたい……

 今のところ感想を出力したい作品は、

・『劇場版美少女戦士セーラームーンR』(1993)

・『トップをねらえ2!』(2004)

・『舞-乙HiME』(2005)

・『ローリング☆ガールズ』(2015)

サラ・ウォーターズ『黄昏の彼女たち』(2016)

・『宇宙よりも遠い場所』(2018)

・『リズと青い鳥』(2018)

・『SSSS.GRIDMAN』(2018)

・やとさきはる『二人のアルカディア』(2019)

小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』(2020)

 このへんかな。『リトルウィッチアカデミア』も作品全体について書きたいと思いつつもうすぐ3年。あと百合ではないけど『さらざんまい』や『天気の子』も素晴らしかったので何かしら書いてみたい。

 なおいまい『ゆりでなる♥えすぽわーる』は、完結後に必ず書きます。紛れもない傑作。

 

映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて(2019)

 監督/田中裕太、脚本/田中仁、制作/東映アニメーション

 TVシリーズ『スター☆トゥインクルプリキュア』の単独映画。『Go!プリンセスプリキュア』『映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!』に続き、タナカリオン&タナジンの最強タッグが放つ三度目の傑作。

 70分という尺の中で一つとして無駄なカットがない、完璧に計算し尽くされた凄まじい密度の構成。ユーマが徐々に感情豊かになってゆくことや、ヤスール火山が星の核まで繋がっているという台詞、そして何よりも「ながれぼしのうた」など、後になって実は全てが伏線だったと気付かされる。さらに、激しいアクションと濃やかな心理描写のメリハリが効いた演出、12星座のドレスで水モチーフの合わせ技といった視覚的快楽の強いデザイン、美しい音楽や美術など、あらゆる要素が申し分なく仕上がった完全なる総合芸術。しかし、本作を真の傑作たらしめているのは、その重厚かつ重層的なテーマ設定である。

 

 本作のゲストキャラクター・ユーマは「星の子」であり、関係を持った人・モノから強い影響を受けてしまうという性質を持つ。プリキュアである星奈ひかるや羽衣ララとユーマが交流し、各々が成長・変化してゆく過程から、様々なメッセージを読み解くことができる。ここでは、ユーマの「子」「星」そして「他者」という多面性に着目し、それぞれどのようなテーマが内包されているか考えたい。

 まず、「子」としての側面に着目すると、「育児」というテーマが浮かび上がる。ひかるとララが一夜を共にした(!)後にユーマが出現したことや、成長したユーマがひかるとララ(とフワ)が織り交ざったような容姿で登場することから、かなり明示的にユーマはひかララの子どもとして表象されていると言えよう。尊いルン。それによって、ユーマとの交流は、ユーマを育てる行為と限りなく近接することになる。

 ユーマへの接し方は、ひかるとララとで大きく異なる。ひかるは、ユーマが加害行為に及ぼうとした時はきちんと叱りつつも、基本的には好奇心の赴くまま肯定・称賛し、将来の選択においてもユーマの自由意志を尊重しようとする。それに対して、ララはユーマを心配する余り声を荒げたり、過保護になりすぎてユーマの行動を制約しようとしたりしてしまう。最終的には、ひかるがララを諭すことで、パターナリズム的な干渉が否定され、子どもの自己決定権の重要性が強調される。

 ただ、留意しておきたいのは、ララの不安は宇宙ハンターの出現という形で見事に的中した一方、ひかるはハンターのUFOを目撃しても「キラやば~☆」とはしゃぐのみで、警戒するララに窘められているという点だ。ひかるの好奇心もララの警戒心もそれだけでは不十分で、対照的な二人が足りないところをお互い補い合ったからこそ、あの結末に辿り着けたのである。尊いルン……

 また、ユーマの星がひかるたちと見た景色の継ぎ接ぎのようになっていたのは、ひかるのイマジネーションがユーマの血肉になり継承されていることを示している。いくら自由を尊重すると言っても、どうしても育つ環境によって選択肢が限られてくるのは否めない。そのため、なるべく多様な意見や経験に触れさせ、少しでも多くの可能性を想像できるようにすることが、子どもが“なりたい私”を自由に描いてゆく上で必要なのである。

 仮に、自己決定権が侵害され、イマジネーションが歪んでしまうと、劇中でユーマが「危険な星」になったように、子どもも心を閉ざしたり、道を踏み外してしまったりするかもしれない。ただし本作は、そこで親の責任について教条的に説教するだけで終わるような愚は犯さない。ひかるとララが歌に乗せて想いを届け、ユーマは再び心を開くのだ。かつて星奈母がひかるに歌い聴かせた「ながれぼしのうた」が、今またユーマへ受け継がれるという世代を越えたイマジネーションの連鎖もまた心憎い。たとえ育児で失敗したように思えても、親が子に伝えたイマジネーションは心の宇宙で確かに生き続けており、きっと何度でもやり直せる。

 プリキュアの映画は子どもだけでは観に行けず、彼女ら彼らを引率する親も大勢鑑賞することになる。本作は、そうした親たちの子育てに追われ振り回される苦痛に寄り添いつつ、子どもにとって本当に大切なことは何なのか、そのために自分たちが出来ることは何なのか考えさせる契機も与えてくれる、きわめて良質な育児ものなのである。

 次に、「星」としての側面を見てみよう。バーンの悪意を受けてユーマが「危険な星」になってしまう一幕は、人類の経済活動による地球環境の破壊を強く想起させる。ハンターらの欲望に晒され混乱し暴走するユーマの姿は、昨今頻発する異常気象そのものだ。短期的な利益に目が眩み環境を破壊してゆけば、いずれは私たちの暮らしも脅かされ長期的には立ち行かなくなってしまう。このように、「環境問題」に警鐘を鳴らすというのも本作のテーマの一つである。

 環境問題は、単に美しい地球が傷付くといった情緒的なものではなく、そこに住む人間を含む全生物を巻き込む現実的な事象である。地球の未来に思いを馳せることは、そのまま自分の子どもたち、すなわち将来世代について考えることに直結する。そこで、ユーマが「子」性と「星」性を併せ持つことや、ユーマと一緒に地球各地を見て回ったことが活きてくる。子どもたち、あらゆる生物の命、美しい自然や風景の数々、そして地球そのものが、「Twinkle Stars」の映像の力も相まって混然一体となる。それによって、目の前の誰かと出逢えた奇跡への感謝が、命の息づく星の奇跡への感謝に自ずと結び付き、この星の行く末は我々のイマジネーション次第だという使命感が湧いてくるのだ。決して押し付けがましくなく、環境問題を身近で具体的なものとして実感させる仕掛けは、見事という外ない。

 そして、ユーマは相互理解が困難な未知の生物、「他者」だということも押さえておきたい。ひかララとユーマの関係は、親と子、人と星といった垂直的なものに留まらず、「他者」同士の対等なものであった。他者と対話し理解に努め、その価値観を尊重するイマジネーションの大切さは、TVシリーズ本編で再三描かれてきたものである。本作はそれを改めて確認した上で、逆に子どもや星さえも「他者」であると認識することが、真の「多様性」の実現には必要不可欠だと提起しているように思う。

 前項で、子どもから地球まで、ありとあらゆる存在が結び付いて意識されることを指摘した。「子」「星」であるユーマが「他者」でもあるならば、同様にそれらの全存在も「他者」と見做すべきだという発想に繋がる。そもそも子の自己決定権も、子を親の所有物ではなく固有の人格や意思を持った個人、「他者」として尊重していることで成立するものだ。また中身に幾らか差はあるものの、動物の権利や自然の権利といった概念も存在する。動植物や無生物に意思はないではないかという反論もあるだろうが、単に現在の人間には意思と認識できないだけで、広い宇宙には遥かに多様な意思の様態が存在することは十分に考えられる。ただ、より肝要なのは、たとえ十全に理解できないものであっても、対等な価値を有するものとして尊重しようという姿勢こそ、イマジネーションの本領であるということだ。解らないからこそ認め合う、そうした素直な在り様が何よりも大切なのである。

 このように、本作は「育児」「環境問題」という二つの小テーマ、それらを包含する大テーマとして「多様性」を取り扱っていると解釈できる。なお、「育児」は前作『HUGっと!プリキュア』、「環境問題」は次作『ヒーリングっど♥プリキュア』のテーマでもあるため、なんとプリキュアシリーズ3年分のテーマが凝縮されているということになる。さすが2010年代最後にして令和最初のプリキュア映画、今・ここの問題意識を余さず盛り込んでいるのだ。キラやば~☆

 

 ところで、プリキュア映画では長らく、観客がミラクルライトを振って応援することでプリキュアに力を与えるという、第四の壁を破った演出がなされている。このメタレベルを含めて考えることで、他にも特筆すべき視座が立ち現れてくる。

 劇中、フワがミラクルライトを振るよう呼び掛ける場面は二つ存在する。中盤の対宇宙ハンター戦と、終盤の「Twinkle Stars」だ。前者はハンターらと戦うプリキュアを応援するという、通常想定される通りの使い方だ。対して後者は、歌い踊るプリキュアに呼応するように、まるでアイドルのライブでペンライトを振るかのごとく使用される。二つの行為は一見全く異なるが、実は共通する性質も多く含まれる。それぞれプリキュアと観客の行動に分けて考えてみよう。

 プリキュアが戦う理由は、TVシリーズではフワを、本作ではユーマを守る、つまり大切なものを守るためである。基本的には、大切なものが危機に瀕することで、危機の要因を排除する手段として実力行使がなされる。一方「Twinkle Stars」は、ユーマに想いを届け、ユーマの声を聴くため、すなわち対話の手段として歌われる。プリキュアにとってユーマときちんと対話することが「大切なもの」であり、それが不可能な現状を打破するために歌い踊る。つまり、戦うことと歌うことはいずれも大切なものを守りたいという祈りの行為であり、戦闘少女もアイドルも本質的には同一の存在なのだ。さらに言うならば、大切なものを守るとは、何かを大切だと思う自分自身を肯定し、大切なものを守れる自分になるということである。ここにおいて、戦闘少女ものとアイドルものは、少女の自己肯定・自己実現の物語(すなわち「変身少女もの」)として統合されるに至るのである。

 対して、観客がミラクルライトを振るのは、応援するためだと纏めてよいだろう。中盤の戦闘時に応援するのは、ユーマを守りたいという動機に共鳴しているというのももちろんあるだろうが、むしろプリキュアが敗北し膝を突く姿を見たくない、戦って勝つ姿を見たいという純粋な願いによるところが大きいと思われる。「Twinkle Stars」でも同様で、観客はユーマとの対話を望むといった理屈を超えて、歌い踊るプリキュアの姿それ自体に魅せられ、昂る感情に衝き動かされて暗黒に光を灯すのだ。したがって、少女が「変身」を果たさんとする瞬間のキラめきこそ、心から応援したいと我々に思わせるものの正体だと考えられる。

 一般社会においては、アイドルは疑似恋愛に過ぎないというような単純な論調が根強く、実際にそうした狙いの商業展開や、その種の目的で行動するオタクが数多く存在するのもまた事実だ。しかし、アイドル、もっと広く言えば「推し」に対するオタクの感情には、そのような一対一の恋愛(特に異性愛)の文脈では狭すぎて取り零してしまうものが多く存在すると思う。それはたとえば、オタクが「尊い」、ひかるが「キラやば」と呼ぶような、存在の全肯定ではないだろうか。少女の実存を賭した戦い、その眩いキラめきを目の当たりにして、この世界に存在してくれてありがとうと噛み締める。そのような奇跡への感謝こそ、人がアイドルを応援する真情の核なのだ。そう本作は雄弁に物語っているように思えてならない。

 ついでなので「Twinkle Stars」について付言したい。TVシリーズではこれまでも、マオの歌にプルンスが元気を貰ったように歌の持つ力が語られてはいたが、この映画ではより明確に、歌は人と人、そして星々を繋ぐイマジネーションの力に溢れているということを表現している。変身時に「スターカラーペンダント!カラーチャージ!」を歌うのも、そもそも歌とはイマジネーションそのものだから奇跡を起こせるのだという説明が成り立ち、結果的に思わぬ形で映画の伏線になりつつ、「イマジネーション」という作品全体のテーマをより深化させている。それまで単なる演出として片付けられていた変身バンクが、実は作品世界を貫徹する論理的帰結であったと再定義される衝撃。この異化効果はまさしくSFの醍醐味だ。

 超新星爆発やファーストコンタクトといった道具立ての時点で、SFとしての面白さは十二分に保証されている。しかしそれ以上に、作品設定を開示することで、それ以前の出来事は何もかも設定に即した必然だったのだと認識が書き換えられ、さらにその設定自体が一つのテーマを表現していることに気付かされるという、二重三重にそれまで見ていた景色を一変させてしまうような大仕掛け、そんなセンス・オブ・ワンダーこそが、本作の“強い”SFたる所以である。

 

 最後に、ひかララについて。二人で力を合わせて困難を乗り越え絆を深めるというような、他の多くの百合ものにありがちな物語とは、本作は様相を異にする。既にTVシリーズで強固に関係性が組み上がっているのを前提とし、子作りや子離れといったその先の物語が紡がれているのだ。この二人が「二人」になる過程ではなく、この二人がこの「二人」でなければならない理由を描いたことで、本作の百合は文字通り大気圏を突破しているのである。尊いルン!

 しかしながら、そんな二人が一緒にいるのは、プリキュアとして戦う上での一時的なことに過ぎない。いつか二人に別れが訪れることは、それまでTVシリーズの折々で示唆され、その後実際に描写されることになる。その事実は、本作では一切言及されないものの、むしろだからこそいっそう濃く暗い影を落としている。激しくユーマとの別れを拒むララに、いずれ来るひかるとの別れが全く念頭になかったとは思い難いし、我々はどうしてもそうした文脈を読み込んでしまい、胸を締め付けられながらも見守ることしかできない。結局、ララは一番大事なのはユーマの気持ちだと納得したが、それならばひかるとの関係については果たしていかなる答えを出すのか、思いを巡らさずにはいられないのだ。絶対的な信頼で結ばれながらも、常に終わりの予感が付き纏う、そんな安定と不安定の同居した二律背反の緊張感が、ひかララという関係性の特質だ。

 ちなみに、どのようにララがひかるとの別れを受け入れたのか、実はTVシリーズ本編中に具体的な描写はない。なんと2月に開催された「スター☆トゥインクルプリキュア感謝祭」キャラクターショーにおいて、初めてその胸の内が明かされるのだ。未見の方は是非とも7月発売のBlu-ray/DVDを購入されたい。

 

 さて、ここまで本作のテーマ性、アイドルやSFといったジャンル性、そして百合について語ってきたが、やはりどれだけ言葉を尽くしても、この綺羅星のような映像作品を表現しきることは不可能だ。それでも、自分の中にある「キラやば」を論理的に解きほぐし順序立てて説明しようとするのは、決して無意味なことではないと思う。理解しようとすること、理解してもらえるように歩み寄ること、その大切さはとっくに教えてもらっているのだから。

 最高の百合SF冒険少女ファンタジーはここにある。物語の力を信じている全ての人に、想いをこめて。


[百合の分類]2-2.パートナー

 

百合の定義・分類【三訂版】

 現状、多種多様な関係性が「百合」と大雑把に括られているため、「どこからどこまでが百合なのか」「この作品は百合と言えるのか」という不毛な議論がそこかしこで頻発している。この記事の目的は、百合と捉えられるコンテンツを大まかに分類し、「これは百合か否か」から「自分の好きな百合はどれか」への転換を促すことにある。

 もちろん、百合の定義の曖昧さこそが、毛色や方向性の異なる作品群を一つのジャンルとして束ね、ブームとして活性化させているという側面は否定できない。下手に細分化した分類を設けることで、ただでさえコミケでジャンルコードすら獲得できていないのに、さらに纏まりを欠いてブームが失速、空中分解してしまうのではないかという懸念も良く理解できる。しかし、そうした前提を共有していない一般人や新規ファンにとっては、何が百合なのか定まらない状況は分かりにくいだろうと思われるし、「○○は百合ではない」といった声に左右されてしまわないとも限らない。それ故、ある程度包括的な定義や分類を決めておくことは、百合ジャンルにとって意義があるものではないかと考える。

 ひとまず、百合について仮に定義しておこう。百合とは、「複数の女性の間の何らかの関係性、およびそれを描写する作品・ジャンル」を指す言葉である。この「関係性」がどのような感情や言動に基づくのか分析することによって、百合コンテンツを分類できると考えられる。以下、百合を「恋愛関係」「特別な関係」「親密な関係」の3種類に大別した上で、それぞれいかなる関係性が結ばれ、それがどのように描かれているのか、さらに細かい類型を提示する。呼称はあくまでも便宜的なもので、より良いものがないか試行錯誤中。

1.恋愛関係

 女性同士の恋愛・性愛関係。恋愛であると明言しているもの、または明言しておらずとも明らかに恋愛であると読み取れるものをここに含む。

1-1.逃避と代償

 強制異性愛の下で許婚や見合いを押し付けられるといった、性的自己決定権が脅かされた状況から一時的あるいは永続的に逃亡するため、代償行為としての同性愛に耽る様を描いたもの。

1-2.誘惑と葛藤

 魅力的な同性に誘惑され、「禁断の恋」だという葛藤を抱えつつも、同性愛関係に巻き込まれてゆく様を描いたもの。誘惑者は主人公を未知の世界へ連れ出してくれる存在として描かれ、多くが悲劇的な結末を迎える。藤本由香里による類型「真紅の薔薇と砂糖菓子」とほぼ同義。

1-3.自覚と告白

 主に思春期の少女同士が、セクシュアリティの揺らぎを経験する中で自らの想いを自覚し、告白を通して恋愛関係を育んでゆく過程を描いたもの。思春期特有の悩みと向き合い成長する、学園青春ものの側面を含むことが多い。

 例: 奥平あきら×万城目ふみ(志村貴子青い花』)

    熊倉真理子×大橋亜紀子(森永みるくGIRL FRIENDS』)

    椿輝紅羽×百合城銀子(『ユリ熊嵐』)

1-4.駆け引きと対話

 対等な個人である女性同士の自由恋愛を描いたもの。ある程度は精神的に成熟し、自分のセクシュアリティ概ね把握していることが多い。関係を進展させるため必要に応じて駆け引きが展開され、問題や障害が発生した場合は対話によって解決が図られる。

 例: 内藤桃子×藩田思信×他(玄鉄絢少女セクト』)

    宮下雪乃×岩井節子(秋山はるオクターヴ』)

    白鳥司×琴岡みかげ×鷲尾撫子(小林キナ『ななしのアステリズム』)

1-5.継続と安定

 既に付き合っていたり同棲したりしている女性同士のカップルを描いたもの。共同での生活設計や周囲へのカミングアウトといった、関係性の継続や将来に亘っての安定を志向する。大半が社会人百合で、性行為やそれに類する行為の描写を含む。

 例: 南雲摩耶×雨宮みちる(鳥野しの『オハナホロホロ』)

    鈴木アリサ×佐藤マリ(奥たまむし『明るい記憶喪失』)

1-6.片想い

 一方がもう一方の女性に想いを寄せている様を描いたもの。物語を通して想いが秘められたままであるか、告白しても拒絶されてしまった場合をここに含める。

 例: 大道寺知世木之本桜(『カードキャプターさくら』)

2.特別な関係

 愛情や友情という枠では括れない、曖昧ながら特別な感情が行き交う関係性。その内実はどうであれ、「この人は自分にとって特別な存在だ」という意識があるという点は基本的に共通している。恋愛であると明示的に描かれていないだけで、ほぼ恋愛関係であると言っても差し支えない、もしくは疑似恋愛的な様態を呈する場合も数多い。

2-1.引力

 互いの存在や精神性に共鳴し、まるで引力で繋がれているかのように、どうしようもなく強く惹かれ合ってしまうような濃密な関係性を描いたもの。「引力」という言葉の発明は『響け!ユーフォニアム』の最大の功績であり、百合界の一大事件と呼べるものであろう。

 例: 黄前久美子×高坂麗奈(『響け!ユーフォニアム』)

    アンジェ×プリンセス(『プリンセス・プリンシパル』)

2-2.パートナー

 運命的な必然や諸々の事情によって半ば巻き込まれるような形で関わり合いを持ち、強い精神的乃至は肉体的な結び付きを得るに至る過程を描いたもの。めきめき『オンリー☆ユー ~あなたと私のふたりぼっち計画~』に使われたキャッチコピー「強制百合」に近い。

 例: 天王はるか×海王みちる(『美少女戦士セーラームーンS』)

    パピカ×ココナ(『フリップフラッパーズ』)

    絢藤沙羅×花厳アイリス(嵩乃朔『吸血鬼ちゃん×後輩ちゃん』)

2-3.シェルター

 実存不安、コミュニケーション不全、社会的抑圧からの避難所として機能するような関係性を描いたもの。1-1「逃避と代償」に近いが、単に逃げ出すのではなく、女性同士の繋がりの中で傷を癒し、自分を見つめ直し、人間として成長することで自らの生き方や人との関わり方を再構築してゆくという積極的な意味合いがある。

 例: 天上ウテナ×姫宮アンシー(『少女革命ウテナ』)

    ラッカ×レキ(『灰羽連盟』)

    相沢羊×虎島ハナ(文尾文『私は君を泣かせたい』)

2-4.バディ

 特定の目的の下で行動を共にし、強固な絆と信頼で結ばれた関係性を描いたもの。2-2「パートナー」とは異なり、目的を遂行するためにはその相手を選ばねばならないという若干消極的な間柄であることが多いが、時が経つにつれ一緒にいることの大切さを気付かされ、優先順位が繰り上がることもある。対等なバディだけでなく、主従百合等の非対称的な関係も含む。

 例: ミレイユ・ブーケ×夕叢霧香(『NOIR』)

    苗木野そら×レイラ・ハミルトン(『カレイドスター』)

    アリカ・ユメミヤ×マシロ・ブラン・ド・ヴィントブルーム(『舞-乙HiME』)

2-5.巨大不明感情

 少なくとも片方が、相手の女性に対して過大な強度の感情を抱いている様を描いたもの。具体的には、好感、尊敬、憧憬、羨望、崇拝といった評価系、独占欲、庇護欲、依存、加虐・被虐願望といった執着系、ライバル視、嫉妬、憎悪、殺意といった敵対系の3種類に大別できる。ただし、これらの様々な感情が複雑に織り交ざり、とても一言では言い表せないことが多い。

 例: マミーナ×ロードレアモン(『シムーン』)

    鹿目まどか×暁美ほむら(『魔法少女まどか☆マギカ』)

    シャリオ・デュノール×クロワ・メリディエス(『リトルウィッチアカデミア』)

2-6.寄り添い

 近しい関係の中で互いを緩やかに意識するような様を描いたもの。一緒にいると安心する、その人の隣が自分の居場所だというような感覚を伴う。

 例: 岸辺志乃×岸辺希(くずしろ『兄の嫁と暮らしています。』)

3.親密な関係

  特に特別視はしていないが、仲が良く親密であるような関係性。友情や家族愛から、単なるきゃっきゃうふふまで幅広く含む。

 

 上記の「1.恋愛関係」を「ガチ百合」、「2.特別な関係」と「3.親密な関係」を合わせて「ソフト百合」と呼称することにする。本ブログの各記事にはこの分類を末尾に記載し、それを基にタグ付けを行うことにする。

 過去の定義・分類はこちら。

yuri315.hatenablog.com

yuri315.hatenablog.com

 

果竜/ほしのゆりか『プリズム愛蔵版』(1999)

 サークル「竜の子太郎」による同人誌の総集編。作者の果竜は、現在はほしのゆりか名義で活動している。DLsite.comで購入。

www.dlsite.com

 3人の少女の高校生活を描いた青春群像劇。低めの頭身に大きな瞳と、とても可愛らしく少女漫画らしい絵柄で、何気ない日常のふとした瞬間に揺れ動く感情を繊細に描き出す。学園生活も終盤に差し掛かり、当たり前だった日々も今の関係性もいつかは失われてしまうのだという予感が、やがて最も残酷な形で現実のものとなる。

 天真爛漫な風子に、密かに想いを寄せていた藍。しかし、その恋は、2人のためを思う余り友人の時華に否定されてしまい、さらに風子の前に気になる男が現れたことで、否応なく悲劇的結末へとひた走る。と、このように筋だけ追ってゆくと、同性愛を禁忌とする異性愛中心主義的なものに見えるかもしれない。しかし、本作はそれだけで終わらない。それまで一貫して藍を思い留まらせようとしていた時華が、あることをきっかけに「この恋は……始まっていたかもしれなかった」と自らの過ちに気付き、ホモフォビアの軛から脱却するのだ。そして後日談として、教員となった時華が、同性を好きだという女子生徒にちゃんと告白するよう背中を押す場面が描かれる。確かに、藍の恋は「眠ったまま」になってしまったが、決して無駄になったのではなく、時華の意識を変えたことで次の世代の恋を目覚めさせることに繋がってゆく。単なる悲恋として閉じることなく、明るい未来に開かれた、力強い希望に満ちた物語に仕上がっている。

 悲恋百合ではあるが、むしろここから新しい百合が始まってゆくのだと、高らかに新時代の到来を告げているかのようだ。たとえ創作の中のものだとしても、登場人物を不幸にするだけのホモフォビアがいかに不要であるか、本作は雄弁に物語っている。

[百合の分類]1-6.片想い

 

ももたまい婚 LIVE Blu-ray/DVD(2017)

 アイドルグループ・ももいろクローバーZ百田夏菜子玉井詩織による、2016年9月4日に新潟県民会館で行われたライブを映像化した作品。2人はメンバーの中でも特に仲が良く、それぞれの苗字を合わせて「ももたまい」というユニットも組んでおり、遂にはスタッフの悪乗りもあって結婚披露宴を模したイベントを開催することになったのだ。

natalie.mu

natalie.mu

 結婚というのは単なる演出、一種の「ネタ」ではあるのだが、女性同士で結婚することを笑いのネタにしているというわけでは決してない。なるべくフォーマルな服装で来場するようドレスコードを周知したり、チケットに引き出物を付けたり、ケーキ入刀や誓いの言葉といった演出を行ったりと、かなり本格的に結婚式としての体裁を作り込んでいる。本当に結婚するわけではないのに、まるで本当に結婚するかのように本気かつ全力でやっている、そのくだらなさがネタになっているのだ。百合挙式のフィクションとして楽しむのが正解である。

 ももたまいの2人は終始照れた調子で、これから結婚するのだという真剣味は薄いが、変に演技をしていない分、かえって素の親密さが伝わってくる。ウェディングドレスを身にまとった2人が恋愛ソングをデュエットしている姿は、掛け値なしに尊い。既存のユニット曲「シングルベッドはせまいのです」は一部の詞しか歌われず、出来ればしっかり歌ってほしかったのだが、この日のために作られた新曲「Ring the Bell」「夜更けのアモーレ」が非常に見応え・聴き応えのあるパフォーマンスなので問題ない。たとえ茶番であったとしても、ここまで真面目にやってくれれば百合として充分見れるものになっているのではないかと思う。

 先日、メンバーの一人・有安杏果が卒業してしまい、悲しみに暮れつつこれまでのライブ映像を見返す中、やはり本作の百合としての良さはもっと知られるべきだなぁと改めて思い、この記事を書いた。ももクロが普段どんなライブを行っているのか興味を持った方には、最近のものであれば「ももクロ春の一大事2017 in 富士見市」をお勧めしたい。派手で大掛かりな演出に頼らず、比較的すっきりとしたステージ構成で純粋にパフォーマンスを魅せることに集中したライブだ。また、男は要らない、女子だけの空間を見たいという方は「女祭り2014 ~Ristorante da MCZ~」をどうぞ。女性限定ライブなので、野太いだみ声のコールを聞かなくて済む。セトリも良い。

[百合の分類]3.親密な関係

 

コダマナオコ『捏造トラップ -NTR-』(2015)

 全6巻。初出は一迅社コミック百合姫』。

 彼氏持ちの女子高生2人の恋模様を描いた攻めの一作。「NTR百合」という挑発的かつ扇情的な謳い文句は、やや炎上にも近い話題性を狙った編集部の思惑によるものかもしれないが、それとドロドロの昼ドラ展開を得意とする作風とが見事に一致し、結果的にこうしてドロドロ百合の傑作が生みだされたことは素直に喜ばしい。

 内容は綺麗に序破急の三段構成となっている。蛍が由真を誘惑する序盤(1,2巻)、蛍が由真から距離を取る一方、由真が攻勢に転じる中盤(3,4巻)、由真が自身の想いを自覚し、蛍との関係を再構築する終盤(5,6巻)だ。問題の「寝取られ」自体は序盤でほぼ完了しており、それ以降は意外なほど女性同士の恋愛物語に徹しているという点は、強調しておくべきだろう。由真の嫉妬心や独占欲、蛍の自己嫌悪や人間不信といったどす黒い負の感情が、執拗なまでに掘り下げられ剥き出しにされてゆく過程は、生身の人間ドラマを求めてやまない全ての人必見である。

 本作の魅力はやはり、小悪魔・メンヘラ・巨乳と三拍子揃った無敵のヒロイン、蛍である。第2巻の「ホントとんちんかんで嫌になる」「本当に好きってのはね 世界が好きな人とそれ以外に分類されちゃうことだよ」等々、挙げればきりがないほど数多くの切れ味鋭い台詞で読者を震撼させた、闇の百合の最終兵器とでも呼ぶべき存在だ。蛍が由真を好きだということは冒頭から容易に読み取れるが、彼女は決して本心を明かすことをせず、話をはぐらかし、嘘を吐く。「由真ちゃんってレズだったの?」(第5巻)「レズって言われるよりいいでしょ?」(第6巻)という問い掛けは、この程度のことを言われたくらいで好きだと返せないのなら本気で好きではないということでしょう、と由真を試すものであり、本当は好きだと言ってほしい、一人にしないでほしいという心からの叫びの裏返しである。それなのに、由真に何度好きだと言われても、蛍は拒絶してしまう。愛されたことがなく、愛される自信を持てず、裏切られるのが怖くて他人を信じられず、裏切られる前に自分が先に逃げ出してしまう。おそらく、蛍はそうした己の気質を深く自覚しており、ますますこんな自分が愛されるはずはないと思い込む負の連鎖に陥っているのだろう。その悪循環を抜け出し、蛍が由真を信じることが出来た瞬間、この物語は完結する。蛍にとっては、どんなに好きでも絶対に結ばれない存在のはずだった由真が、自分の気持ちと向き合った末に闇の中から蛍を救い出し、遂にはお互いがお互いに真正面から向き合うに至る。なんと尊い、真摯な百合であろうか。

 女性登場人物の複雑な内面をとことん深掘りしつつ、男性登場人物についてはある程度類型で済ませることでキャラを立てた点も、バランス感覚に優れている。武田はとにかく善意や良心を体現した人物で、由真と別れた後も何かと優しく気遣い続け、第6巻では「人が人を好きになるのに変だとかないよ」と由真が無意識に内面化していたホモフォビアを解きほぐすことまでしてくれる。一方、藤原は典型的なミソジニーホモソーシャル野郎で、男友達に対してのみ誠意をもって接する。しかしその誠意は、こうするのがお前のためだという極めて独善的な基準によるもので、自分自身だけでなく由真の幸せをも願う武田には否定されてしまう。ある意味、可哀想な奴だが、武田とは対照的に全く同情は出来ない。

 最後に「捏造トラップ」という題名について考えてみたい。もちろん「Netsuzou TRap」の頭文字が「NTR」になるからという安直な理由もあるだろうが、本編に即した解釈も可能だ。トラップというのは、蛍が由真に仕掛けた恋の罠のことだろう。ただ、それはあくまでも「練習」や「親友を取られた焼きもち」だというように、真意を捏造される。そうした蛍による捏造を由真が見破り、気まぐれな罠に終わることなく、真剣な愛へと辿り着く。このように、きちんと内容を反映した優れた題名であると言えるのではないだろうか。

 百合業界の問題作として賛否両論ある本作だが、表層に捉われず中身を丹念に追ってゆけば、とても普遍的な王道百合漫画であることは明らかだ。心理描写も見応えがあるが、エロ要素も本人が楽しんで描いているのだろうなと伝わってきていっそ清々しい。傑作短編「モラトリアム」と並び立つ、コダマナオコの代表作として高く評価したい。

[百合の分類]1-2.誘惑と葛藤→1-3.自覚と告白→1-4.駆け引きと対話

 

リトルウィッチアカデミア 第25話「言の葉の樹」(2017)

 2013年、文化庁の若手アニメーター育成事業「アニメミライ2013」の参加作品として第1作『リトルウィッチアカデミア』が、2015年には続編となる第2作『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』が公開。2017年、前作の設定を踏襲しつつ、新たにストーリーを仕切り直したTVシリーズリトルウィッチアカデミア』が放映。

 オリジナルアニメ。監督は吉成曜、制作はTRIGGER。第25話の脚本は大塚雅彦、絵コンテは吉成曜今石洋之、演出は宮島善博が担当。

 Aパート。魔獣ミサイル発射を知るも為す術は無いと諦めるクロワ、暴走した力は制御できないと聞いて黙り込むシャリオに対し、アッコそしてダイアナが出来ることはあると言う。クラウソラスに選ばれるも自分を見失い罪の意識に苛まれ続けるシャリオと、ひたすら研鑽を重ねてきたにも拘らず選ばれることはなく失意の裡に最後の計画にも失敗したクロワは、もはや自分の魔法を信じることが出来ず、状況をここまで悪化させておきながら対策を講じられない。しかし、この2人と最初こそ同じ立ち位置に居たものの、相手は自分に足りないものを持っていると認め、なおかつ相手に足りないものを持つ自分なら相手を助けることが出来るのだと気付き、互いに心を通わせ合ったため、アッコは臆面なく「出来るよ!」と言い放ち、即座にダイアナも「やってみる価値はありそう」と同意し得た程に、強く魔法を信じていられる。一方、最初にアッコとダイアナに夢を与えたのは外ならぬシャリオであり、アッコがここまで成長したのもアーシュラ先生の教えと導きがあってのことだ。だからこそ、アッコとダイアナはシャリオとクロワの役割を引き受け、現在まで尾を引く負の連鎖に終止符を打つ力と責任を担うに至ったのである。尊い

 アッコの発案で結成されたニューナインウィッチによって、ミサイルを追うために箒が連結される。ナインオールドウィッチの魔法という伝統と、クロワやコンスタンツェの科学という新しい力が交わることで、5つ目の言の葉「シビラデューラ レラディビューラ」が発動してシャイニィバレイが生み出される。さらにヤスミンカの火力、コンスタンツェの技術力、アマンダの操縦能力、そしてスーシィの猛毒とロッテの精霊召喚の合わせ技と、それぞれの持ち味を活かして多段式ロケットの要領で次々と箒を切り離し、推力を上昇させてゆく。これまでアッコの頑張りを間近で見届けてきて、アッコなら何かやってのけるに違いないという確信と信頼があるからこそ、同じ目的のために自分に出来ることを精一杯やろうとするし、安心して後を任せられるのだ。いつもは皮肉屋のスーシィが「アッコのためにやってやりますか」と素直に口に出してしまうのとか、本当に尊い

 Bパート。人々の“信じる心”が直接魔力として注がれ、飛び続けるアッコとダイアナ。恐らくウッドワードが流したのであろうその映像を見たクロワは、世界中のモニターをジャックして、シャリオに「マイクパフォーマンスは得意でしょ」と応援演説を請う。自分を信じて実際に状況を変えてゆく2人にクロワもまた変えられて、それまで認められずにいたシャリオの芸能活動の成果を、同じく信じられずにいた“信じる心”のためには今まさに必要なものだと思えるようになったのだ。それによってクロワに負い目を感じ続けてきたシャリオも救われ、世界に向けて「信じる心が私達の魔法です」と呼び掛ける。擦れ違うばかりであったシャリオとクロワが、その裏返しの存在であり継承者であるアッコとダイアナによって因業を清算されることで、自分と相手に正面から向き合って和解を遂げた瞬間であった。尊い

 ダイアナが巧みな操縦で迫り来るミサイルを回避する傍ら、アッコは得意の変身魔法「メタモール フィ― フォシエス」でミサイルを無力化してゆく。最初はいがみ合っていた2人が、互いを信頼し共闘するまでになったことに思わず目頭が熱くなる。また、単にミサイルを破壊するのではなく、人々を楽しませるエンタテイメントに変えてしまうというアッコならではのやり方が奏功するのは、愚直に信じてきたことが決して無駄ではなかったという何よりの証明だ。しかし、いくら成長したとは言え、依然としてアッコは変身魔法くらいしか取り柄の無い落ちこぼれであるのもまた事実。それ故にアッコは完全にミサイルを御すること能わず墜落する。ダイアナもまたアッコがいたからここまで来れたのであり、単独で突っ走って空回りする余り失敗してしまうこともある、決して完璧ではない存在だというのは第1作や第2話「パピリオディア」で示された通りだ。落ちてゆくダイアナの手を取ったのは、流星丸に乗ったアッコ。第1作や第3話「Don't stop me now」における、箒に乗ったダイアナがアッコを助けるという構図を反転させたものであるのは言うまでもない。そして流星丸は、これまでアッコを助け、アッコと関わる中で心を動かされて自らもまた変わっていった数多くの人々の代表だ。誰かに助けられてばかりだったアッコが、人との繋がりの中で少しずつ成長し、様々な協力を得てダイアナを助けることまで出来るようになったという、これまで積み重ねてきたあらゆる想いや結び付きが凝縮し結実した象徴的なシーンと言えよう。尊い、尊すぎる。

 第1クールOP「Shiny Ray」を背景に、人々の“信じる心”が縒り合わさって世界樹イグドラシルを復活させる。何気にエゴサ小説家アナベルやネット投資家ファフニールが、モニターの前でこの瞬間に立ち会うことの説得力が大きく、細かな設定を活かしきっていると感じる。そうして中継を見守るキャラクター達と、TV画面の外から声援を送る視聴者自身を重ね合わせ、“信じる心”を現実世界に呼び込む優れたメタ的表現にもなっている。アッコとダイアナは1つ目の言の葉「ノットオーフェ オーデン フレトール」を詠唱、シャイニィアルクを起動し、ミサイルを笑顔の光に変えることに成功。第1作では独りで、第2作ではロッテとスーシィと3人で使ったシャイニィアルクを、シャリオに憧れた者同士でありながら全く正反対の境遇に置かれていたダイアナと、心を一つに手を取り合って放つ、そんな大気圏も過去から現在へ至る因縁も全て突破する百合が最高に尊く美しい。世界改変魔法グラントリスケルの力で世界中に星が降り蝶が舞い、“みんなが笑い合える世界”へと変わる。その輪の中にいる金髪碧眼の少女、次いで大写しになる見るからにアッコ似の少女は、ダイアナとアッコに夢を与えられ、次世代でまたその役割を受け継いでゆく者であると予感させられる。シャイニィロッドが消えて北斗七星になる場面は、『キルラキル』の鮮血の死を彷彿とさせつつ、戦いの犠牲になるのではなく願いを叶え役目を終えるという形で、優しくも力強い本作に相応しく再構築されていた。

 後日談。クロワがワガンディアの呪いを解く方法を見つけたいと言うのはシャリオへの想いが感じられて良いが、自分のせいでシャリオが飛べなくなったとアッコが知ることがなかったのは少し残念。そして第1クールED「星を辿れば」が流れつつ、アッコが飛行魔法「ティアフレーレ」を練習するのを皆で見守るという、平穏を取り戻した日常が描かれる。あれだけ反目し合っていたアマンダとダイアナが同じテーブルに着いてお茶していたり、自分の気持ちに素直になってオタクをカミングアウトしたのか、バーバラがロッテと一緒にナイトフォールを読んでいたりと、ここへ来て新カップリングをぶち込んでくるのが実に素晴らしい。バーバラもロッテ同様に腐女子なのだろうか。一方、アッコの帽子を返しにアンドリューもルーナノヴァを訪れる。アッコの真っ直ぐな姿に本心を引き出され、魔女の世界とは隔絶された政治の場において自分の信じるままに父に立ち向かうことが出来たアンドリューが、思いを再びアッコに受け渡すことで、魔法と政治で分裂していた物語が合流する。アッコによって巻き起こされた“信じる心”が一つに統合されてアッコに還り、生きた力となって、遂にアッコは飛べるようになるのだ。ここでコンスが「飛んだ……」と初めて言葉を発し、アッコの成し遂げたこと、その大きさと温かさが改めて呼び起こされ、感慨も一入である。

 というわけで、TRIGGERが圧倒的な作画の暴力でやりたい放題やっているように見えて、2クールかけて積み上げた物語が「信じる心がみんなの魔法」という一つのテーマに向けてきちんと収束している文句無しの最終回であった。1クール目のような一話完結型の日常回をもっと観たいという人は多いだろうし、ヤースナやハンナやバーバラの担当回も無かったので、是非とも2期を製作して頂きたいところだ。出来ることなら、もっとグロス少なめの余裕を持ったスケジュールで。

[百合の分類]2-5.偏愛 他 

 

シムーン(2006)

 全26話。

 オリジナルアニメ。監督は西村純二、制作はスタジオディーン

 後天的に性別を選択する世界において、オーバーテクノロジーの兵器で戦う少女たちを描いたSF群像劇。内容は、小山田風狂子(會川昇)や大和屋暁が中心となって手掛けた前半と、岡田麿里と監督自らが交代で脚本を執筆した後半とに分かれる。前半では、世界観や登場人物を紹介しつつ、性別を選択する年齢に達しながら巫女であり続け、巫女でありながら戦争に出るという矛盾と葛藤に焦点が当てられていた。一方、後半になると、戦況が敗色濃厚になりゆく中、少女同士の関係性や思春期における自己決定といった実存の問題へと物語の比重が移されてゆく。序盤で挫折する人は多いだろうが、本格的に面白くなってくるのはむしろ中盤以降であるのが敷居の高さの所以か。

 シムーン・シヴュラが性別の選択を猶予され「少女」で在り続けるというのは、若さや美しさに価値を置き、処女性を神聖視する男性中心的なジェンダー規範を揶揄しているかのようだ。そんな「神の乗機」シムーンが破壊兵器として敵を蹂躙するのは、少女とは決して信仰という名の消費をされるだけの無力な客体ではなく、それを逆手に取って利用する強かさと、不当な支配構造を暴き社会を転覆しかねない危うさを内包した主体であることの表れだろう。しかし、世界は少女が力を有することを許さない。シムラークルム宮国はアルゲントゥム礁国による度重なる侵入を受け、遂にシムーンは墜ち不敗神話は崩れ去る。圧倒的な物量差と科学力を前に敗戦へひた走る姿は、第二次世界大戦時の日本とも重なる。さらに、戦勝国同士であった礁国とプルンブム嶺国もやがて対立し、分割占領された宮国に再び戦争の影が忍び寄ってゆくというのも、米ソの冷戦と代理戦争を彷彿とさせる。一方、少女から大人へとモラトリアムを卒業することを余儀なくされた人々は「永遠の少女」という可能性を夢見るが、それも所詮は見果てぬ夢、過ぎ去りし日の懐かしき思い出として美化された墓標であり、残酷な世界に留まって生きてゆかねばならないという現実が突き付けられる。少女と社会、宗教と戦争といった硬派な問題意識が織り込まれた、骨太の傑作である。

 本作は百合アニメと評されがちだが、むしろ「百合」の枠組を相対化したものであるということは、『ユリイカ』第46巻第15号で上田麻由子が詳細に論じている通りである。『ウテナ』が「百合はいかにして可能なものか」を描いたものとすれば、さしずめ『シムーン』は「これまで百合はいかなるものであったか、そしてこれからどこへ行くべきか」を問うたものであり、両者は共にメタ「百合」アニメの系譜に位置付けることが出来る。たとえ「永遠の少女」が人々の感傷と追憶の中にしか存在し得ないものだとしても、アーエルとネヴィリルの恋愛と旅立ちは紛うことなき本物であり現実であった。少女という時代との決別を切なくも美しく謳い上げることで、閉鎖的な少女の世界に留まっていた「百合」を希望の大地へ、自由な新天地へと羽ばたかせたのである。

 もちろん、純粋に百合的な見所も盛り沢山だ。単にシムーンと話すために機械的にキスするだけでなく、きちんと個々人の感情に裏打ちされた関係性の描写がそこかしこに散りばめられている。個人的には、岡田麿里初脚本回である第12話「姉と妹」が、強烈に百合を感じた良回であった。当初の思い込みが覆されるのが心地良い。他にも、終始男好きであるかのような言動を取っていたフロエが、本当は誰のことが好きだったのかなど、色々と掘り下げて考える余地があるのも嬉しい。己の視線に自覚的になりつつ楽しもう。

 独特な世界観、耳慣れぬカタカナの設定の数々と取っ付き難い作風ではあるが、それだけに唯一無二の観る価値がある。コール・テンペストの面々はしっかりと描き分けられて魅力的な個性を放っているし、「最上の愛」といった鮮やかな伏線回収や、各話を象徴する美麗なアイキャッチも素晴らしい。音楽や美術は非常に繊細で美しく、総合芸術としてのアニメーションの魅力が存分に詰まっている。美しければそれでいい。

[百合の分類]2-4.バディ→1-3.自覚と告白 他

 

小林キナ『ななしのアステリズム』(2016)

 全5巻。初出はスクウェア・エニックスガンガンONLINE』。

 女子中学生3人の三角関係百合と男子2人のBLを描いた拗らせ青春群像劇。初めて会った日の会話をきっかけに3人とも一方通行な恋心を抱いていたという鮮烈な第1話、そして第1巻末尾のポエミーな独白によるタイトル回収と、のっけからとてつもない漫画が始まったという予感しか与えない。さらに読み進むうち、それぞれの視点から「私には秘密がある」という台詞と共に新事実が明かされてゆき、誰が何を知っていてどう思っているのか高度な情報戦と心理戦が繰り広げられていたことに驚愕させられる。最終巻に至っては、同性愛のみに留まらぬ性的多様性や、少数派の多数派に対する特権意識といった、生半可な覚悟では踏み込めない領域へも突入してしまう。恋愛という、ともすると冗長になりがちな題材を扱いながら、ここまで凄まじい情報量を無駄なく完璧な構成で纏め上げた手腕もまた圧巻だ。

 本作の最大の見所は何と言っても、三角関係百合の一角・琴岡みかげである。平素は己の感情を抑圧し隠蔽しつつも、時に溢れ出す想いに身を任せてしまったり、現状維持と破壊衝動との間で揺れ動き、余裕を失くしてつい残酷な振る舞いを取ってしまったりと、拗らせっぷりが実に危うく魅力的だ。その一挙手一投足に心を搔き乱され、どこまで行っても堂々巡りな思考に胸は張り裂けんばかり。暗い感情の籠った冷徹な視線にぞわぞわしながらも、いつか必ず幸せになって欲しいと心から願ってしまう。百合漫画史上最も刺さるヒロインと言っても過言ではない。刮目せよ。

 一方、残念でならないのは、どうやら打ち切りの憂き目を見たがために、いくつかの伏線が回収されず終盤の展開も駆け足になってしまったことだ。後書きの裏話で触れられていたように、琴岡や朝倉の過去はもっと掘り下げて欲しかったし、女装の露見やかっこいい告白の場面も見てみたかった。許すまじガンオン編集部。

 最後に、随所で話題を呼んだ最終巻カバー下について。本編の最後に司が考えていた通りの将来像を素直に提示しており、概ね予想の範囲内であった。それでも“3人組”は変わらないという結末は、とても尊く美しい。ただ、琴岡の「司はいつか“普通”になる子だから」は、「お前が勝手に他人の気もちを決めるな!!」という司の言葉によってメタ的に否定されたようにも思えるし、そもそも本作は一貫して、表面だけ見ても分からないような「秘密」を描いてきた。それ故、あの後日談を額面通り受け取るのも何となく憚られるのだ。いずれにせよ、作品をより味わい深くする良い余韻になっているのではないかと思う。

 “名前のない感情”に真正面からぶつかり、大胆かつ誠実に描き切った傑作。捩れて絡まり合う関係性、錯綜する想いの行方は、読めば読むほど辛く苦しく切なくなる。そのしんどさが堪らなく愛おしい。読まないと人生損している、確実に。

[百合の分類]1-4.駆け引きと対話

 

カレイドスター(2003)

 第1期26話、第2期25話、OVA3本。

 オリジナルアニメ。監督は佐藤順一、制作はGONZOとG&G Entertainment。

 王道の成長物語。主人公が仲間や家族に支えられつつ努力と葛藤の果てに夢を叶えるという一見陳腐なストーリーだが、人物の心情に寄り添い一つひとつの展開をしっかり積み上げてゆく作り込まれた構成と、それを巧みに映像という形に落とし込み活き活きと芝居を魅せてくれる安定した演出によって、嘘のようにぐいぐい引き込まれて観始めたら止まらない。健康的な色気のあるキャラクターデザインも好感が持てる。厳しい特訓の描写などからスポ根と評されることもあるが、観客を楽しませるサーカスを題材とすることで、勝利の興奮などよりも余程大きくて深い「感動」を与えてくれる、普遍的な物語を描き出すことに成功している。

 主人公・苗木野そらを始めとして女性が多く登場するが、本作の主眼はあくまでも個人の成長に置かれているため、関係性それ自体の強さが押し出されず百合要素は薄い。しかし、最初は憧れの対象でしかなかったレイラと互いに高め合うまでになる経過や、苦手意識を持ちつつも深いところで通じ合っている親友・まなみとの遣り取りには、決して無視出来ない尊さが存在するのも確かだ。結局それらは成長の糧でしかなく、カップリングとして際立ってはいないので、過度の期待は禁物だが百合的な見方も全く不可能ではない。

 とにかく すごい 傑作。シリアスとギャグの配分も良く、シンプルながら高い完成度だ。挫折を乗り越えて自分の信じる道を進むそらの姿を見れば、きっと人生において大切なことを教わり、明日を生きる勇気を貰うことが出来るだろう。最高の喝采を送らざるを得ない。

[百合の分類]2-4.バディ

 

玄鉄絢『少女セクト』(2005)

 全2巻。初出はコアマガジンコミックメガストア』及び描き下ろし。

 百合エロの最高峰。女子校百合という触れ込みからは想像も付かない程にがっつりエロシーン満載ではあるが、巷に溢れ返る成人男性向け作品のように奇乳で汁塗れということはなく、写実的ではあれど品のある官能美が描かれる。心理描写も非常にしっかりしている上、細部まで丁寧に作り込まれた美麗な作画は目を瞠るものがある。難読人名を始めとする凝りに凝った設定や、ウィットに富んだ小粋な台詞回しは、やや通好みと言うか同人っぽい感じはするが、ありきたりな作品に飽き飽きした玄人には丁度良い濃厚かつ濃密な味わい。

 第1巻は毎回新しいカップリングが登場する1話完結、第2巻はそれまで狂言回しに甘んじていた2人の主人公・内藤桃子と藩田思信を主軸に据えて物語が進む。のっけから状況説明が殆ど為されず、最初は何が起こっているのか全く分からないという取っつき難さはあるが、読み進めてゆく内に世界観と人間関係が掴めてくる。一旦慣れてしまえば、一つの作品でこれだけ幅広く様々な関係性を楽しめるという贅沢な作りなのだと気付かされる。個人的には雪華と旦蕗のような拗らせ具合が大好き。

 全体的にポリアモリーを指向しているのも注目すべきところ。それが享楽的な性愛としてではなく、きちんと心情や関係性込みで肯定的に描かれているのも素晴らしい。10年前にここまで解放的な作品が存在したことに驚かされ、未だに百合の定義論争をうだうだ続けている連中がいるのもアホらしく思えてくる。

 百合漫画史上の名作の一つとして末長くその名を留めることは間違いない。とにかく過剰にして豊穣、豪華絢爛な作品世界に酔い痴れるべし。また、10年振りの新規描き下ろし「Extra Chapter III」がまとめ版のコンビニコミックに、スピンオフ作品「五十鈴のカウンター」が『イイタさんペイロード』第1巻に収録されているので、併せて読むことをお勧めする。

[百合の分類]1-4.駆け引きと対話

 

ストロベリー・パニック(2006)

 全26話。

 原作はメディアワークス『電撃G's magazine』の読者参加企画・公野櫻子Strawberry Panic!」。監督は迫井政行、制作はマッドハウス

 聖ミアトル女学園、聖スピカ女学院、聖ル・リム女学校の3つの女子校と、3校共通の寄宿舎・いちご舎を舞台に繰り広げられる恋愛群像劇。古典的な百合のお約束や様式美で固めつつ、肉体関係にまで及ぶ大胆な描写も取り入れており、現在の多様な百合表現から見て先駆的・過渡的存在であったと評せる。男性目線を意識したような媚びた要素が目立つのは否めないが、作品世界からは男性が徹底的に排除されている。

 入念な構成や巧妙な伏線の張り方が特徴だが、裏を返せば仕込みが遅く登場人物の核心部分が終盤まで明かされないということであり、それが仇となって初見ではいまいち背後関係が見えにくく感情移入しづらい作品。代表的な百合アニメとして名前が挙がることが多いが、むしろ幾度もの鑑賞を要求する玄人向けであると言えよう。

 人物造形や設定情報の出し方にも難がある。ミアトルの渚砂と静馬、スピカの光莉と天音の2組のCPを両輪として話が展開するものの、渚砂以外は基本的にヘタレで敢えて応援する気になれない。特に光莉は、王子様を待つお姫様という三流少女漫画にありがちなうじうじめそめそした受動的な性格が鼻に付き、第25話でようやく意地を見せるが少し遅すぎるという感が強い。他にも、静馬は序盤の掴みでもっとカリスマ性を強調すべきだったとか、注文は幾らでも付けられるのだがこれくらいにしておこう。

 一方、本作の見所はやはり、片想いの切なさを余すところなく描き切った点にある。主軸の4人に比べると、周囲の人物の方が必死な想いを抱えているのが痛いほど伝わってきて、共感しやすいし好感が持てるのだ。第20話で玉青、第21話で深雪、第22話で夜々と要というように、それまでの人間関係が一気に収束へ向かってゆく怒涛の伏線回収は圧巻。特に「例えば地球温暖化だ」を筆頭に数々のネタと奇行で知られる要が、ここまで男前な役柄に回るとは誰が想像できただろうか。そして最終話の「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」という心震える演出。誰もが幸せな結末というのが不可能な中で、それぞれの想いをきちんと着地させ、一つの物語として纏め上げたところは高く評価したい。

 このように、色々と惜しい作品ではあるが、百合好きなら見過ごせない魅力があるのも確かだ。ガチ百合アニメがほぼ皆無な現状、観ておいて損はないだろう。

[百合の分類]1-3.自覚と告白

 

林家志弦『ストロベリーシェイク』(2015)

 全1巻。初出はマガジン・マガジン百合姉妹』、一迅社コミック百合姫』他。『百合姫』移籍時に題名を『ストロベリーシェイクSweet』と改め、2006~2009年に全2巻が刊行。これを原題に戻し、描き下ろしを加えた新装版として集英社より発行された。

 芸能界百合コメの決定版。冒頭はドタバタなギャグ漫画という色彩が濃いが、話が進むにつれて恋愛に焦点が当てられてゆき、終わってみれば王道の純愛漫画だったという絶妙さ。メインCPだけでなく、脇を固める百合キャラ達も物語を大いに盛り上げ、どこを取っても面白くエンタメとして精緻に完成されている。だらだらと長引かせず、引っ張る所ではとことんやきもきさせ、畳む所では一気に片を付けるというような、ぴりっとした緩急の付け方も好印象。

 ヘタレな樹里亜×天然の蘭の初心でピュアな恋愛に萌えるのは当然のこと、本作を秀作たらしめているのはずばりZLAYである。「メンバー全員女の子しか愛せない」4人組スーパービジュアルバンドである彼女ら、登場した当初は単なるギャグ要員かと思いきや、笑える台詞を吐きつつも実はそれが状況を的確に総括していたり、樹里亜と蘭の恋を進展させるきっかけを作ったりと、狂言回し兼サポート要員として作品の根幹を支える役回りを担っているのだ。しかもその言動をいちいち面白く仕立てることで、不自然さを感じさせず高いテンションを維持している。もはや神業と言っていい。

 登場人物の中で個人的に一番好きなのも、やはりZLAYのベース担当・レキ。メンバーの中で最も正統派の可愛らしい外見でありながら、殆ど表情を変えずにツッコミを入れたり毒舌を吐いたりするのが素敵。いつも喧しく調子乗りなリョウが、レキには頭が上がらず尻に敷かれているという関係性がツボであった。

 読んでいて、こうした直球の恋愛はラブコメに昇華させるのが一番合っていると改めて実感した。逆にシリアスな路線であれば、恋愛の儘ならなさや不毛さに踏み込んだ変化球が丁度良い。だから大真面目にピュア百合やったり、逆に変化球で強引に笑いを取ろうとしたりすると結果的に失敗してしまうのかなぁと思ったり。

[百合の分類]1-3.自覚と告白

 

百合の定義・分類【改訂版】

 これまでの作品評を踏まえた上で、以前の記事よりも実践的な百合の定義・分類方法を考えてみたい。

 現状、多種多様な関係性が「百合」と大雑把に括られているため、「どこからどこまでが百合なのか」「この作品は百合と言えるのか」という不毛な議論がそこかしこで頻発している。この記事の目的は、百合と捉えられるコンテンツを大まかに分類し、「これは百合か否か」から「自分にとっての百合はどれか」への転換を促すことにある。

 

 百合は女性2人(以上)のカップリングがなければ成立しない。カップリングとは、「双方向的に感情や言動が遣り取りされる関係性」であると定義しておく。そして、百合CPを1組以上含む作品が百合コンテンツであり、作中の主要なCPがどのような感情や言動に基づくのか分析することによって百合コンテンツを分類できると考えられる。

 ここで注意したいのが、片想いの取り扱いだ。片想いは一方通行の感情であり、一見するとCPを作り得ない。当然、片想いされる側がする側に全くの無関心・無反応であればその通りだ。しかし、百合コンテンツで取り扱われる片想いは、反作用としての逆方向の感情を伴う。たとえば、熱烈なアプローチに対して「こっち来んな」と冷たく拒否するといった対応が考えられるだろう。この関係性が美味しいと感じられれば、それは立派なCPとして萌えの対象となるのだ。

 また、片想いと一口に言っても様々な種類があり、それによって同じ「こっち来んな」という対応であっても異なる色彩を帯びてくる。真剣な交際を申し込まれた場合における「こっち来んな」は、付き合うつもりは全くないという断固とした拒絶反応となる。一方、幼馴染からいつものように好きだと纏わり付かれた時の「こっち来んな」には、逆に冷たくすることで主導権を握ろうという意図が隠れているとも受け取れる。このように、関係性の質や濃度は、たとえ片想いであっても様々に分けて考えることが出来るのである。

 

 では、実際に関係性の類型や描き方による分類を試みたい。明らかに百合と言えるものはともかく、何となく百合っぽく感じるものについて、その内実はいかなる関係性が描写されているのかに留意して分けてみた。呼称はあくまでも便宜的なもので、より良いものがないか試行錯誤中。

1.レズビアン

  少なくとも片方が女性同性愛者または両性愛者であることを前提や暗黙の了解として、女性同士の恋愛・性愛模様を描いたもの。精神的に成熟し、既に自分のセクシュアリティを概ね把握していることから、関係性の中での感情の揺れ動きや心理的駆け引き、周囲や社会との軋轢などが中心的関心に位置する。大半が性行為やそれに類する行為の描写を含む。

 ビアン同士のいちゃらぶ結婚生活からノンケ相手の悲恋百合、果ては体だけの関係やポルノ紛いの作品まで含むため、下位分類を設けた方が良いかもしれない。

 例: 秋山はる『オクターヴ』(2008) - 百合の散歩道

    森島明子『瑠璃色の夢』(2009) - 百合の散歩道

2.自覚系

 主に思春期の女性同士が、セクシュアリティの揺らぎや葛藤を経験する中で自身の性的指向を自覚し、恋愛関係を育んでいく過程を描いたもの。思春期特有の悩みや実存不安と結び付いた形で、学園青春ものとして成長物語の側面を含むことが多い。かつては既存の性規範を無批判に内面化した耽美系が大部分を占めていたが、現在は自分や相手ときちんと向き合うことを重視する真摯な作品群が主流となっている。清い関係で踏み止まる場合と、肉体関係に踏み込む場合の両方が存在する。

 例: 志村貴子『青い花』(2006) - 百合の散歩道

    森永みるく『GIRL FRIENDS』(2008) - 百合の散歩道

 以上1~2を「ガチ百合」と一括りにすることもできるだろう。一方、ここからは下に行くにつれて恋愛と呼ぶのは躊躇われるような微妙な関係性となる。

3.示唆系

 「好き」等と言ってはいても、それが具体的にどのような感情なのか、どこまでの関係性を求めているのか判断が難しいもの。性行為やそれに類する行為の描写がなかったり、あっても抽象的・観念的に描いていたりして、恋愛かどうか曖昧である場合にこの分類を適用する。

 もしくは、少なくとも片方は明らかに恋愛感情を抱いているとしか思えないのだが、作中では明言や断定をされず、仄めかされるだけで留まっているもの。各人の百合フィルターの強さによって範囲が広がったり狭まったりするが、基本的には「いやこれはもう確実に付き合ってるわ」と大多数による合意が成立する程度の描写を想定している。例に挙げた2人が分かりやすいだろう。

 例: 天王はるか×海王みちる

    ユリ熊嵐(2015) - 百合の散歩道

4.特別視系

 少なくとも片方が相手の女性に、通常想定されるよりも遥かに強い感情を抱いている様を描いたもの。恋愛とは一線を画すものの、実存や人生に関わる核心的問題として受け止められる程の激しい想いや結び付きを伴う。具体的には、好感、尊敬、憧憬、羨望、崇拝といった評価系、独占欲、庇護欲、依存、加虐・被虐願望といった執着系、ライバル意識、嫉妬、憎悪、殺意といった敵対系の3種類に大別できるだろう。これら全てに共通しているのは「この人は自分にとって特別な存在だ」という意識である。それ以上は各自妄想や二次創作で補うべし。

 ピュア百合は純粋な魂の交流を美化し、精神的な繋がりこそ至高とする一派には非常に受けが良い。ドロドロ百合は行き過ぎた愛のディストピアに陥りがち。

 例: 灰羽連盟(2002) - 百合の散歩道

    魔法少女まどか☆マギカ(2011) - 百合の散歩道

5.絆系

 女性同士が強固な信頼関係や友情で結ばれている様を描いたもの。内面描写が乏しく、殊更に惹かれたり意識したりしているかは不明だが、一般的な友達や親友よりも高い次元で互いを唯一無二の相手として認め合っているように見受けられるものを指す。そこから先は妄想・二次創作どんと来い。

 関係性の外部との抗争には強い団結力を発揮するため、バトルものやSFとの親和性が高い。

 例: エル・カザド(2007) - 百合の散歩道

    咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A(2012) - 百合の散歩道

6.親密系

 少なくとも片方が相手の女性に、度を越して強い愛情表現や身体的接触をしているようなもの。具体的には、じゃれ合ったり抱き着いたり胸を揉んだりといった、過剰なボディタッチや濃厚なスキンシップなど。当人らの意識が確実に恋愛感情であれば分類1に含むべきだが、友達感覚の延長であったり不明瞭であったりする場合にはこの分類を適用する。

 もしくは、日常生活の中で偶然見かけた女性同士が親しげにしている情景や、その種の断片的な描写に、百合センサーが反応して萌えるようなもの。前後の文脈から切り離されており当人らの感情が分からないことが多いが、むしろ分からないからこそ妄想の余地が生まれ、大きな瞬発力を持ち得ると言える。

 例: きらら系(←割と偏見)

 以上3~6を「匂い百合」と総称しておく。3~5は描き方で分けており、実際の中身は重なる部分も多いと思われるが、ひとまずこれで置いておく。

 

 上記6種類のいずれかに当てはまる関係性が「百合」であると定義する。この分類に作品の方向性やジャンルによる分類を組み合わせれば、どのような百合が描かれているか大体把握できるだろう。そして、自分が好きな作品がどの分類に該当するか見ていけば、百合萌えポイントが掴めるというわけだ。ここでは、ひとまずシリアス(S)とコメディ(C)の2種類にジャンル分けして、関係性の分類と合わせてみようと思う。

 

 具体的な表記法は次の通り。複数の種類の関係性が併存している時は「,」で並べ、主・副が明確なら後者を「()」で括る。一対の関係性が基本的にはある分類に該当するが他の分類にも近かったり、2人の姿勢がそれぞれ異なる分類に分かれたりする場合には「/」で区切るが、なるべく分類を確定させたいので多用は控えようと思う。

 次にジャンルについては、大筋はシリアスで時折コミカルなら「S(C)」、その逆は「C(S)」、段々シリアスからコメディに移っていくものは「S,C」、その逆は「C,S」とする。そうした緩急がなく、どちらともつかない場合は、勢いや熱量で畳み掛けるような作品は「SC」、明るくほのぼのハートフルな作風であれば「CS」と表記する。

 そして、関係性とジャンルの分類をそれぞれ「-」で繋ぐ。たとえば、示唆系寄りの絆系CPを中心に特別視系CPも描かれ、テンションの高いバトルものであれば「5/3,(4)-SC」と表記することになる。

 

 今後書く感想はもちろん、以前に感想を書いた作品についても、以上の方法に従って新たにやり直した分類を末尾に書き加えてゆくこととする。了承されたい。

 より汎用性の高い定義・分類を考えてゆきたいので、ご意見あればコメント欄へどうぞ。

 さらに改訂した最新版はこちら。

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