シムーン(2006)

 全26話。

 オリジナルアニメ。監督は西村純二、制作はスタジオディーン

 後天的に性別を選択する世界において、オーバーテクノロジーの兵器で戦う少女たちを描いたSF群像劇。内容は、小山田風狂子(會川昇)や大和屋暁が中心となって手掛けた前半と、岡田麿里と監督自らが交代で脚本を執筆した後半とに分かれる。前半では、世界観や登場人物を紹介しつつ、性別を選択する年齢に達しながら巫女であり続け、巫女でありながら戦争に出るという矛盾と葛藤に焦点が当てられていた。一方、後半になると、戦況が敗色濃厚になりゆく中、少女同士の関係性や思春期における自己決定といった実存の問題へと物語の比重が移されてゆく。序盤で挫折する人は多いだろうが、本格的に面白くなってくるのはむしろ中盤以降であるのが敷居の高さの所以か。

 シムーン・シヴュラが性別の選択を猶予され少女で在り続けるというのは、若さや美しさに価値を置き、処女性を神聖視する男性中心的なジェンダー規範を揶揄しているかのようだ。そんな「神の乗機」シムーンが破壊兵器として敵を蹂躙するのは、少女とは決して信仰という名の消費をされるだけの無力な客体ではなく、それを逆手に取って利用する強かさと、不当な支配構造を暴き社会を転覆しかねない危うさを内包した主体であることの表れだろう。しかし、世界は少女が力を有することを許さない。シムラークルム宮国はアルゲントゥム礁国による度重なる侵入を受け、遂にシムーンは墜ち不敗神話は崩れ去る。圧倒的な物量差と科学力を前に敗戦へひた走る姿は、第二次世界大戦時の日本とも重なる。さらに、戦勝国同士であった礁国とプルンブム嶺国もやがて対立し、分割占領された宮国に再び戦争の影が忍び寄ってゆくというのも、米ソの冷戦と代理戦争を彷彿とさせる。一方、少女から大人へとモラトリアムを卒業することを余儀なくされた人々は「永遠の少女」という可能性を夢見るが、それも所詮は見果てぬ夢、過ぎ去りし日の懐かしき思い出として美化された墓標であり、残酷な世界に留まって生きてゆかねばならないという現実が突き付けられる。少女と社会、宗教と戦争といった硬派な問題意識が織り込まれた、骨太の傑作である。

 本作は百合アニメと評されがちだが、むしろ「百合」の枠組を相対化したものであるということは、『ユリイカ』第46巻第15号で上田麻由子が詳細に論じている通りである。『ウテナ』が「百合はいかにして可能なものか」を描いたものとすれば、さしずめ『シムーン』は「これまで百合はいかなるものであったか、そしてこれからどこへ行くべきか」を問うたものであり、両者は共にメタ「百合」アニメの系譜に位置付けることが出来る。たとえ「永遠の少女」が人々の感傷と追憶の中にしか存在し得ないものだとしても、アーエルとネヴィリルの恋愛と旅立ちは紛うことなき本物であり現実であった。少女という時代との決別を切なくも美しく謳い上げることで、閉鎖的な少女の世界に留まっていた「百合」を希望の大地へ、自由な新天地へと羽ばたかせたのである。

 もちろん、純粋に百合的な見所も盛り沢山だ。単にシムーンと話すために機械的にキスするだけでなく、きちんと個々人の感情に裏打ちされた関係性の描写がそこかしこに散りばめられている。個人的には、岡田麿里初脚本回である第12話「姉と妹」が、強烈に百合を感じた良回であった。当初の思い込みが覆されるのが心地良い。他にも、終始男好きであるかのような言動を取っていたフロエが、本当は誰のことが好きだったのかなど、色々と掘り下げて考える余地があるのも嬉しい。己の視線に自覚的になりつつ楽しもう。

 独特な世界観、耳慣れぬカタカナの設定の数々と取っ付き難い作風ではあるが、それだけに唯一無二の観る価値がある。コール・テンペストの面々はしっかりと描き分けられて魅力的な個性を放っているし、「最上の愛」といった鮮やかな伏線回収や、各話を象徴する美麗なアイキャッチも素晴らしい。音楽や美術は非常に繊細で美しく、総合芸術としてのアニメーションの魅力が存分に詰まっている。美しければそれでいい。