読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

百合の散歩道

一介の百合好きによるレビューブログ。

ユリ熊嵐(2015)

 全12話。

 オリジナルアニメ。監督は幾原邦彦、制作はSILVER LINK.。キャラクター原案は前回記事を書いた『瑠璃色の夢』の著者・森島明子

 「スキを諦めなければ世界は変わる」という主張は過去作と通底する。世界観は『ピングドラム』から更に進展し、何者にもなれない者たちが、悪の選別と排除による集団の防衛という第三の生存戦略を無意識的に講じて「透明な嵐」として君臨している。言わば「こどもブロイラー」の内面化であり、透明な存在として場の空気に意思決定を委ねることで実存不安を回避しているのだ。しかし同時に、「断絶の壁」の向こう側とは絶えず緊張状態にあるし、こちら側でも周囲から浮いた異質な言動を取ると「排除の儀」によって疎外されるという恐怖に常に晒されている。本作は、そのような同調圧力の構図を個人が一気に変えることは難しくとも、「スキ」を貫くことでゆっくりとでも変革の連鎖を起こしてゆけるのだという希望を示す。最終話、紅羽と銀子は「約束のキス」を交わして現世から退場するが、その瞬間を目撃した亜依撃子とメカこのみの間で新たなスキが芽生える。実際に「世界はあなたのスキで目覚め変わってゆく」ことを見せ、この物語は「あなた」の物語ですよと視聴者に投げ掛けることで、『ウテナ』の劇場版でも部分的に示されていた脱出の継承という思想がより鮮明に伝わってきた。

 愛の様々な形を、3話毎に交代する敵によって表現するという構成が秀逸だ。透明な嵐に上手く乗っかりつつ、その場のノリと利己的な欲望に衝き動かされる百合園蜜子。完全には透明になりきれず、実際は承認を求めていた針島薫。相手を己の理想のまま留めておくことが叶わず、ひたすら心の空虚さを埋めようとし続けた箱仲ユリーカ。そして、自覚的に思考停止し透明であり続けることを選択した大木蝶子。彼女達は皆「本物のスキ」を見つけることは出来ない。嫉妬や傲慢といった罪を認め、醜い自己を破壊しなければ「約束のキス」は交わせない。ここまで多角的に愛を描いてきたからこそ、そんな当たり前すぎて残酷なことを躊躇なく言い切ってのけるだけの物語強度を生み出している。

 そして百合である。しれっと人物紹介に表示される「ユリ」の二文字に呆気に取られ、肌色まみれのユリ承認や濃厚に絡み合うユリアムールに笑いを誘われ、実は直球で百合恋愛を描いてくるところに胸を打たれる。特に、るるの一途な片想いには思わず涙してしまう。「私はスキを諦めない、キスを諦めます」というるるの台詞には、これ以上に美しい片想いの表現があるだろうかと感嘆させられた。るる可愛いよるる。

 1クールと短く、前2作に比べて寓話としての抽象度が高かったせいもあって、思想が凝縮されて破壊力抜群になっている。耳に残る独特の決め台詞はますます磨きが掛かり、ケレン味溢れる演出や、映像にぴったり嵌った音楽も絶好調。示唆に富む社会批判と濃密な百合の詰まった異色の傑作。

[百合の分類]3(1)-S(C)

 

森島明子『瑠璃色の夢』(2009)

 短編7本。初出は一迅社コミック百合姫』及び描き下ろし。

 社会人百合の名手による珠玉の短編集。ふんわりと丸っこい絵柄で、明るくほのぼのとした作風が特徴。どの女性も可愛く人間味に溢れており、彼女達の甘く幸せな恋を見ているだけでほっこりする。身体を交わす描写もエロいと言うより想いが通じ合う様が伝わってきて心安らぐ感じ。描かれる愛も込められた愛も規格外だ。

 個人的に気に入ったのは、逆ギレからの逆告白が痛快な表題作、昔は恋人同士だったが今は恋のライバルという設定が光る「ハニー&マスタード」、微笑ましい喧嘩と仲直りを描いた「20乙女の季節~Virsin Season~」の3編。だが、本作を語る上でやはり外せないのが「追憶~ノスタルジー~」だ。恋愛・友愛・家族愛の融合した、百合の一つの到達点を感じる。百合漫画史上最も好感を持てる男性キャラかもしれない託人くんも見所の一つ。何度も読んでその深い味わいを堪能してほしい一品である。

 ちなみに、既刊や続刊との繋がりが多いのも本作の特徴。「20乙女の季節~Virsin Season~」「満月の夜には」は『楽園の条件』所収の「20娘×30乙女」「「攻」↔「守」」の後日談、「半熟腐女子」は『半熟女子』の番外編となっている。また『レンアイ♥女子課』に「ハニー&マスタード」の続編が、『初めて、彼女と。』には同作と表題作のサイドストーリーが収録されている。一冊だけでは物語の断片しか知ることが出来ないのは少し残念ではあるが、併せて読めば楽しさ倍増と肯定的に捉えるのが吉。

[百合の分類]1,2-C

 

輪るピングドラム(2011)

 全24話。

 オリジナルアニメ。監督は幾原邦彦、制作はBrain's Base。

 「愛も罪も分け合って運命を乗り換える」という発想は基本的に『ウテナ』から引き継がれたもの。ただ物語の構造はやや複雑になり、主題も世界からの脱出よりは小さな共同体の防衛という色彩が濃い。殆どの登場人物は過去のトラウマを引きずって自己を肯定できずにいる「きっと何者にもなれない」者だ。そのうち多蕗とゆり、それに苹果は、自分達にとっての「永遠のもの」である桃果を取り戻そうとする『ウテナ』的人物である。一方、高倉兄弟や真砂子は最初から「永遠のもの」なる幻想が失われた時代に生き、代わりに「15年前の呪い」に支配されている。それは即ち、かつて「世界の果て」が主張したような、柩の中で生きながら死ぬという生存戦略不在の生き方はもはや不可能だと、予め自覚されているということだ。彼ら彼女らが何者かになるためには、運命の果実を一緒に食べるという「救い」を目指すか、いっそ世界を破壊してしまえという「呪い」の手に落ちるかという、いずれかの生存戦略を選択せねばならない。更に「救い」により運命を乗り換えるためには自己犠牲という代償も要求されるが、これによって絆で結ばれた小さな世界を守ることは出来る。極めて過酷な、現代を言い表した世界観である。

 感心したのは、桃果と眞悧が同じ風景を見ていたという箇所だ。何者にもなれないという悲鳴に満ちた世界への応答という意味で、救いと呪いは同根の存在なのだ。直情的に善悪を切り分けるのではなく、かと言って結局どれも偽善に過ぎないと冷笑的になるのでもない、透徹した批判精神が発揮されている。また、本作は明らかに地下鉄サリン事件を題材としているものの、眞悧やピングフォースは現実の人物・団体からは大きくかけ離れた描き方をされている。それにより、上記のような呪いの構造は、かえって鋭く事件の本質を言い当てているのかもしれないと思わせられる。上手い料理の仕方だ。

 百合的には、何と言っても第15話が神回。ゆりと桃果の過去が回想されるのだが、二人の心の交流が少しずつ深まってゆき、「灰色の水曜日」を流しつつ病室のラストシーンに至るという流れが大変美しい。激しく打ち付けられる鑿の音、父親の台詞で突然BGMがぶつ切りになるなど、音響演出も冴え渡る。前話から続くゆりが苹果を襲う場面もエロい。百合要素はこの辺りにしかないにも拘らず相当な存在感を放っており、この回のためだけに全話鑑賞する価値はある。また、最後に陽毬と苹果の二人が残されるのなら、途中もっと百合百合な描写を入れて欲しかったが、晶馬を取り合っている割には不穏さが抑えられていたとは思う。

 現時点で幾原作品の中では一番好き。思想先行で物語性に乏しい作風であるが故に、多視点の物語が一つに収斂してゆくという群像劇の手法が合っているし、お家芸バンクシーンの映像的快楽は他の追随を許さない。やくしまるえつこのOP「ノルニル」「少年よ我に帰れ」も世界観に合っていて良い。こういう革新的なアニメこそもっと観てみたいと切に願う。

[百合の分類]4(1)-C,S

 

森永みるく『GIRL FRIENDS』(2008)

 全5巻。初出は双葉社コミックハイ!』他。

 少女漫画系ガール・ミーツ・ガールの金字塔。女子高生まりとあっこの初々しく瑞々しい恋模様を描く。奇を衒わず堅実に積み上げてゆく王道の展開はいっそ素朴とも言えるが、画面は贅沢なまでに女の子の可愛らしさと初恋の眩しさに溢れた華やかな作り。巻の最後をキスで引き、次巻をキスの回想から始めるという繰り返しでテンポを付け、引き締まった構成になっている。

 無駄な寄り道や冗長な引き延ばしをせず直球で勝負しているところが、惚れ惚れするほど潔い。自分の気持ちに気付いて告白し、擦れ違いを経て両想いになり、付き合ってゆく中でお互いの気持ちを確かめ合う。そんなどこまでもベタなストーリーを陳腐に感じさせないのは、背景の日常生活や人物の心理描写に一切手を抜いていないからだろう。目配りの行き届いた、完成度の高い作品だ。

 また、脇を固めるキャラクターも重要な要素の一つである。たとえば、まりやあっこの友人・すぎさんは、相談に乗りつつ二人を見守るという恋愛ものには付きものの人物造形だが、決して上から目線で理解者ぶっているわけではない。第4巻で「本当の恋」に出会えないと悩む彼女は、ピュアな二人を羨ましがると共に、自分も本命を作ろうと励まされているのだ。このように、ただ恋愛を讃美するだけでなく別の視点から相対化することで、改めて二人の恋の美しさを噛み締めさせられるのだ。

 百合の入門書としては最適だと評されることが多く、自分もその意見に同意するのだが、どうやら記事執筆時点で絶版となっているようである。そんな冷遇には全く相応しくない名作であり、勿体無さに涙が出てくる。読み返す度にきゅんきゅんし、ぎゃあああああと叫びながらのたうち回って萌え死にそうになり、最後には極上の多幸感に酔いしれる。おすすめ。

[百合の分類]2-C(S)

 

少女革命ウテナ(1997)

 全39話、映画1本。

 オリジナルアニメ。監督は幾原邦彦、制作はJ.C.STAFF

 本作に限らず幾原作品は難解だと言われることが多いが、ストーリー自体は割合に単純だ。それを難しく見せているのはシュールな演劇調の演出であり、真に難解なのは幾重にも張り巡らされたメタファーの解釈である。

 主題は「殻を破る」「世界を革命する」即ち「いかに既存の規範から自由になるか」。最終話、ウテナはアンシーの心の殻を破るという形で世界を革命して学園から姿を消し、アンシーがウテナを見つけに自ら学園を出て行く。それは暁生の世界から心身共に脱出するということであり、王子様がお姫様を救って幸せになるというジェンダー規範から解放された対等な関係を結ぶということでもある。ウテナが王子様としてアンシーを救う方がすっきりした結末にはなっただろうが、それではアンシーの支配者が暁生からウテナに交代するだけで、権力構造は維持されてしまう。作り手が決して妥協せず、伝えたいテーマを貫き通していることが窺える。

 ただ、劇場版『アドゥレセンス黙示録』において、二人の行く手に新たな城が聳え立っていることが示しているように、殻を破って行き着く先も元いた学園と同じ閉塞した世界、「世界の果て」でしかないのかもしれない。しかし、それでも二人は自分たちの意志で外へ出ることを選択する。現状を維持しようが打破しようが結局何らかの制約や束縛を受けるのだと引き籠るのではなく、同じように世界に違和感を覚える共犯者を見つけて一緒に新天地を目指せというわけだ。この「愛する人と世界を革命する」という思想は他の幾原作品にも共通して見られる。

 このように、本作は「いかなる愛なら可能か」といったところを追究しており、ウテナとアンシーもその象徴という側面が強く、簡単に百合と言ってよいものか躊躇われる。2人の関係性が作品の核心であるのは確かだが、TVシリーズ全体を通して見ると百合な絡みは決して多いとは言えない。樹璃の枝織への想いも全く報われないし。ところが劇場版では、一転してウテナとアンシーの百合度が急上昇する。ベッドに入っていやらしい手つきで撫で回したり、唐突に二人で踊り出したり、ヌードモデルをさせたり、最後には疾走しつつ全裸で絡み合って濃厚なキスを交わしたりと、自分でも書いていて一体何やねんこれはと脱力するほど百合ん百合んな映像のオンパレード。やはり百合を語る上では外せない作品の一つであろう。

 正直に言うと、TVシリーズ序盤はさほど面白いとは感じられなかった。毎回似たような決闘の連続で飽きてくるし、ウテナは無邪気な善意を振りかざしているだけのようにも思えたからだ。しかし、終盤に近付くにつれて真相が明らかになり、加速度的に話に引き込まれていった。物語を大胆に再構成しつつ主題を掘り下げた劇場版も素晴らしい。アニメーションという媒体を活かしきった傑作。

[百合の分類]4(1)-S(C)

 

秋山はる『オクターヴ』(2008)

 全6巻。初出は講談社アフタヌーン』。

 社会人女性同士のカップルを写実的に描いた力作。恋愛を一切理想化せず、嫉妬、依存、承認欲求、自己嫌悪、未熟さゆえの諍いや擦れ違い、そして同性愛ならではの周囲の無理解など、とことん生々しく痛々しい展開が続く。弱さや不安を抱えた悩める若者が、いかに自己と他者に正面から向き合ってお互いの関係を築いてゆくかという問題意識を真剣に突き詰めており、百合好きでなくとも一読の価値はある。

 第2巻の行きずりの男と一夜を共にする展開が良くも悪くも注目されがちだが、個人的に「ここまでやるのか」と感じたのは、むしろ第5巻の地元の友人と決別する場面。主人公・雪乃に彼女が居ることを自分の彼氏に漏らし噂を広めてしまったにも拘らず、図々しくも彼氏を擁護しつつ謝罪した友人。それに対する「もう二度と会いたくない」という雪乃の独白に心を抉られる。想像力の欠如ゆえの邪悪な善意を手厳しく非難する名場面だ。

 百合に癒しや安らぎを求める人には全く向かないだろう。ふらふらと流されてばかりの雪乃を好きになれないという人も多いと思う。けれども、わたしは本作を萌えないからと切り捨てる人よりも、とてもリアルで共感できた、強く心を動かされたという人と仲良くしたいものである。

[百合の分類]1/2-S

 

ガールズ&パンツァー(2012)

 全12話、OVA1本、映画1本。

 オリジナルアニメ。監督は水島努、制作はアクタス

 徹頭徹尾、迫力ある戦車戦を楽しむための作品である。散りばめられた美少女キャラクターはオタクを釣り上げるための入口、実力者に率いられた弱小校が強豪校を打ち破るという王道ストーリーは分かりやすくカタルシスを与えるための道具立てに過ぎない。作り手の「これがやりたい」「これを見せたい」という熱意を全面に押し出しているからこそ、これでもかと繰り出される戦闘描写に心躍り、ぐいぐいと引き込まれる。特に劇場版は尺の4分の3が戦車戦で占められ、凄まじく純度と密度の高いエンターテインメントに仕上がっている。

 そういうわけで、百合成分はほぼ皆無。心情や関係性は大して掘り下げられず、盛り上げるための要素の一つとして扱われている。一応、劇場版ではみほとまほの姉妹百合、麻子とそど子の遣り取り等が補完されているし、仲間の犠牲に救われ独りで戦おうと力んでいたカチューシャと、急造チームでチームワークなど取れるかと鼻で笑っていたエリカが、見事な連係プレーで敵戦車を撃破した場面にはいたく感動させられた。ただ、いずれも人間的成長という側面が強調されており、百合として萌えるだけの関係性を築けているかは疑問。同人の燃料としては使えるという程度だろうか。個人的にガチだと思えたのは、みほしか目に入っていないまほを見てしょんぼりと項垂れるエリカくらいで、やはり逆方向の矢印が弱いのが如何ともし難いところだ。

 百合の有無はさて置くとしても、娯楽作品として非常に優秀かつ濃密であることは確かだ。立川シネマシティの極上爆音上映や4DX上映といった、映画館に足を運ぶことに価値を生み出す売り方も本作の強みを上手く活かしていた。「ガルパンはいいぞ」と言わざるを得ない。

[百合の分類](4,5)-SC

 

袴田めら『新装版 最後の制服』(2011)

 全2巻。初出は芳文社まんがタイムきららキャロット』『まんがタイムきららMAX』及び描き下ろし。2005~06年に刊行された全3巻をまとめ直し、つぼみシリーズにて改めて発行された。

 萌え系の可愛らしい絵柄に騙されてはいけない。女子高の学園寮で群像劇という、正統派の本格百合漫画だ。作中で「憧れの人の追っ掛け」に対する違和感を登場人物に表明させ、一時的な女子校のファンタジーとしての百合とは一線を画した点は天晴れと言う他ない。

 実る恋、突然の別れ、報われぬ想いと、物語は人によって様々だが、どれも真摯に、かつ温かく大切なものとして描いている。「体に触れたい」「もっと一緒に居たい」といった素直な気持ちに寄り添い、その延長線上に自然と性的な触れ合いも出てくるため、読んでいてとても納得できるし満ち足りた気分にさせてくれる。ノンケや男もしっかりと個性を持って登場し、作品世界に奥行きを与えている。ありふれた日常の風景、何気ない遣り取りの中にある、きらきら輝くかけがえのない時間を切り取った、何度でも読み返したくなる上質な作品である。

 各話の間に挿入されている「かってにさいごのせいふくこうさつ」が面白い。登場人物の絵の傍らに、キャラ設定や注目すべき萌え要素の短い説明が書き込まれており、作者の迸る愛と萌えへの飽くなきこだわりを感じさせられた。記号的な美少女キャラが氾濫する今日この頃、作り手の情熱は果たしてこれ程のものになっているのだろうかと思わず考えを巡らせてしまった。

[百合の分類]1,2-C(S)

 

咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A(2012)

 全16話。2009年放送のアニメ『咲-Saki-』の第2期。

 原作は小林立咲-Saki-』の外伝である、五十嵐あぐり作画の同名漫画。監督は小野学、制作はStudio五組

 原作『咲-Saki-』は単なる萌え漫画ではない。チームが一丸となって麻雀という名の異能バトルを戦い抜く、王道ド直球の熱血スポ魂なのだ。そのチームの団結力の源泉の一つとなっているのが、選手同士の百合である。あの子のため、みんなのためという想いが、少女たちを強くし、そして成長させる。燃えと萌えがふんだんに詰まった唯一無二の青春百合漫画なのである。

 本作にも分類で言えば絆系の百合描写が数多く見られる。旧友との再会、師のためのリベンジといった強い意志が物語を動かし、勝利への道筋を付ける。また、主人公側だけでなく対戦校の選手の心情や関係性もしっかり描いており、無尽蔵のカップリングで無限に百合妄想を膨らませてくれる。

 そして何よりも、第9~12話の全国大会準決勝第一試合先鋒戦が最高だ。立ちはだかる最強の敵を、チームメイトに託された思いを乗せて打ち破るという試合展開がとにかく熱い。特に千里山女子の園城寺怜の闘牌は涙なしには観られないだろう。この4話のためだけに全話鑑賞する価値はある。

 また、五十嵐あぐりではなく小林立の絵柄で映像化しており、漫画の単なるアニメ化に留まらずアニメとしての独自の存在価値を生み出している。効果的なメディアミックスという点からも評価できる作品である。不満な点があるとすれば、千里山女子のCVであるStylipSメンバーの関西弁はとても聞けたものではないのだが、OP曲「MIRACLE RUSH」「TSU・BA・SA」は素晴らしかったので許容範囲内としておこう。全国大会準決勝以降のアニメ化にも期待したい。

[百合の分類]5-SC

 

井村瑛『最低女神』(2012)

 短編7本。初出は一迅社コミック百合姫』、他に未発表作や描き下ろし等。

 柔らかな描線でふんわりとした可愛らしい女の子と、暗い感情が渦巻き翳のある人間模様の取り合わせが味わい深い。重めの設定が多く胸を締め付けられながらも、極端に殺伐とすることはなくどこか温もりを感じさせる。画力はやや不安定にも見えるが、それによって今にも壊れてしまいそうなひりひりした空気感を出せていると思う。

 「プラチナサンディ」は、滅びた世界という舞台設定が個人的にツボであった。極限状況における精神崩壊という物語展開は使い古されたものだが、その引き金を引いたのが友達だと思っていた同性からの告白ということで、上質な百合作品に仕上がっている。真実を隠蔽しつつ巧妙に伏線を張り、読者をあっと驚かせる手腕も鮮やかだ。

 デリヘル嬢×お嬢様の「リバーサル」も良いのだが、後日談として描き下ろされた「リバーシブル」の方が好みの絵柄。ツンデレ同士の掛け合いが何とも微笑ましい。救いの無いお話が続く中、最後のページの琴子の笑顔のお蔭で、ほっこりと温かな気持ちで読み終わるのも嬉しいところだ。

 なお、本作も記事執筆時点で国立国会図書館に収蔵されていない。一迅社はちゃんと納本して下さい(2回目)

 ※追記。2017年2月20日、国会図書館OPACに書誌情報が追加された模様。

[百合の分類]1,4-S

 

カードキャプターさくら(1998)

 全70話、映画2本。

 原作はCLAMPの同名漫画。監督は浅香守生、制作はマッドハウス

 見所はずばり、カップリングの豊富さ。百合、BL、近親愛、生徒×教師、果ては人外と、ありとあらゆるCP属性の見本市となっている。まあ結局はヘテロエンドなのだが。

 全体の中で百合の占める割合は決して大きくない。その数少ない百合要員である大道寺知世は、一貫してさくらの恋を応援し見守り続ける。さくらの幸せが自分にとって一番の幸せという、涙ぐましい程の一途さ。第50話で「知世ちゃんに好きになってもらえた人は、きっと幸せだね」とさくらに言われた時の、心の底から嬉しそうな笑顔。と書くと、ただ叶わぬ恋に酔って悲劇のヒロインぶっているだけなのではないかと思われるかもしれない。けれども彼女は、さくらに自作のコスチュームを着せて撮影したいという己の欲望もちゃっかり満たしているのだ。一方的に気持ちを押し付けることも無理やり抑え込むこともしない、バランスの取れた理想的な片想い。知世のように生きてゆけたら、人生は楽しく美しいものとなるに違いない。

 物語は殆どカード集めに終始し、些かワンパターンなきらいもある。だが、変身・戦闘シーンの映像的快楽、魅力的なキャラクターの織り成す人間ドラマがテンポ良く繰り広げられ、観ていて飽きることがない。ギャグとシリアスの配分も絶妙。文句なしの名作である。

[百合の分類]3-C(S)

 

コダマナオコ『コキュートス』(2014)

 中編2本。初出は一迅社コミック百合姫』及び描き下ろし。

 登場人物の心の声を丁寧に拾ってゆき、気持ちや関係性がじわじわと変化してゆく様を鋭くシリアスに描いている。特に、冷たい表情や目線の描画に凄味があって、思わずぞくりとさせられる。

 表題作は、ドロドロとした心の動きもさることながら、気持ちが先走って体に手を出してしまう展開が読み応えたっぷり。内面描写もエロもきっちりと研ぎ澄まされている点はコダマナオコ作品の大きな魅力である。

 2作目の「モラトリアム」が大のお気に入り。主人公の真央は、大学で知り合った友人・伊月に恋愛感情を持たれていることに気付くが、自分には伊月に対する独占欲はあれど性欲はないことも自覚する。この「恋愛ではないけれど好き」という感情のドロドロした部分から目を逸らさずに描き切っているのが素晴らしい。「百合は精神的なつながりこそ至高、肉体関係とか要らない!」なんてことを言う人は、その欲望がいかにおぞましさを孕んだものか、本作を読んで向き合ってほしいものだ。

 更に秀逸なのは、その後に伊月視点の描き下ろし「モラトリアム -ITSUKI side-」を追加したところだ。ここで、実は伊月は、真央が自分の気持ちに気付いていることを知っているのだと明かされる。全て分かった上でお互いの駆け引きが続いてゆくことを匂わせつつ物語は幕を閉じる。こういう歪んだ愛とかドロドロ百合とか大好物です。

 ただ、一つ気になったのは、真央の元彼が「女同士はキレイだけど男友達に恋愛対象として見られてたら無理」といった台詞を吐くこと。真央が「自分は無理じゃないのか」と自問自答する流れと繋がっているのだが、人によってはホモフォビアだと嫌悪感を覚えるかもしれない。「自分は男を恋愛対象としては見れない」的な、自己の性的指向を語る表現にした方が良かったのではないか、という印象。

 全体的に、鮮烈な切れ味のドロドロ百合が存分に楽しめる良作である。ちなみに、カバー下のあとがき漫画がちょっと面白い。そっか、これも百合か、と妙に感心してしまった。

 それから、記事執筆時点で本作は国立国会図書館に収蔵されていない。一迅社はちゃんと納本して下さい。

[百合の分類]1/4,2-S

 完全版についての記事はこちら。

yuri315.hatenablog.com

 

魔法少女まどか☆マギカ(2011)

 全12話、総集編映画2本、続編映画1本。

 原作なしのオリジナルアニメ。監督は新房昭之、制作はシャフト。

 蒼樹うめの可愛らしいキャラクター原案と虚淵玄のシリアスかつハードな脚本とのギャップで話題を集めた。「魔法少女もの」のお約束を打ち破り、既成概念を破壊するという構造は『新世紀エヴァンゲリオン』と類似している。

 

 論評の前に、見田宗介大澤真幸による戦後精神史の区分を用いて、アニメ史を簡単に概観してみよう。「大きな物語」が機能していた「理想の時代」、それが失効し代替としての虚構が支配した「虚構の時代」が終焉したことで、『エヴァ』以降のセカイ系が台頭した。近景と遠景を直結させることで、身近な個人の実存の問題を扱いつつも壮大な物語を構築し、物語ることの説得力を担保した一方、どこまでも深く内面へ潜ってゆく引きこもり的な心性も生み出された。その反動として出てきたのが、とにかく行動しろ生き残れという決断主義であり、いやいっそどこまでも近景に埋没して現実逃避しようぜという日常系であった。いずれも物語性を無視・放棄することで物語ろうと試みたのだ。そして本作は、現実なんてそう甘いもんじゃない、どんなに頑張っても祈りは呪いを生み希望は絶望になるんだという容赦ない世界観によって、決断主義も日常系も一刀両断し全てを振り出しに戻した感がある。

 『まどか』の新しさは、セカイ系的な様相を纏いつつも実は全く異なる想像力を提示した点にあると思う。確かに、まどか魔女化という地球の危機は存在したが、インキュベーターの宇宙規模の視点で見れば大したことではない。また、ほむらの積み重ねた時間が結果的にまどかの祈りに力を与え世界改変へと至らしめたのだが、まどかに出来たことは世界を救うのではなく、世界システムを僅かに改善することだけだ。主人公とヒロインの関係性は、もはやセカイを左右するほどの大きなものではなく、何とか頑張って世界が少しでも好い方へ向かうように努力することくらいしか出来ない小さなものに過ぎない。個人とセカイの二項対立から脱却し、個人は巨大なシステムの内部に存在し一部として働き掛けるしかないという世界観も、現代グローバル社会に対応したものとなっている。

 また特筆すべきは、物語を失った現代において、いかに物語性を回復せんとしているかだ。まどかは、地域や時代を越えた全人類の救済という「大きな物語」によって、身近な魔法少女の希望を絶望で終わらせないという「小さな物語」を叶えた。これは、近景が遠景を呑み込むセカイ系のように見えて、遠景を改革することで連続的に近景の問題も解決してしまおうとするという逆転の発想である。セカイ系のメタと言われる所以である。肥大化した自意識の不安ではなく、普遍的な希望を叶えようとする願いによって世界を革命したことで、本作は公共的価値のある物語として成立することができた。だからこそ、どんなに残酷な世界でも希望を信じ抜き変えてみせるというまどかの決意表明は、これ程までにわたしたちの胸を強く打つのである。

 

 そして、続編である劇場版『[新編]叛逆の物語』によって、再び物語は裏返される。ほむらはまどかの実存的幸福を取り戻すために、まどかが普遍的希望によって作り出した世界を破壊した。ここに至って公と私という対立軸が再び蘇る。しかし、ほむらは単に己の欲望のまま行動したわけでなく、ひたすら一人の人間としてのまどかの幸せを守ろうとしているのだ。欲望と秩序の対立、個人の権利と公共の福祉の衝突を見せつけられ、TVシリーズでまどかの自己犠牲に賛辞を送った全員が何とも言えぬ後味の悪さの中に放り込まれる。

 なおかつ、ほむらが世界を書き替えてインキュベーターを支配下に置いたことで円環の理が乗っ取られるのを未然に防げたのだし、さやかやなぎさも生き返ることが出来た。世界は滅亡するどころか、むしろ好い方へ向かったのだ。それなのに、ほむらは「悪魔」として孤独に佇まざるを得ない。これまで近景に埋没し中景から目を逸らし遠景を呑み込むことを単純に「悪」と切り捨ててきたセカイ系批判に対し、真っ向から批判を返した形だ。ただ、「じゃあ結局どうすればいいのか」という結論は出されていない。願わくば、ここから更に一歩先へ行く想像力を、『まどか』の続編で見てみたいものである。今後の展開に期待したい。

 

 さて、肝心の百合だが、友愛の延長線上にある描写が散見する程度だろうか。TVシリーズにおけるほむまど・杏さや的要素が二次創作で強化され、『叛逆』に逆輸入され公式CPとして定着したという流れは興味深い。だがそれだけの話だとも言える。わたし自身は関係性の移り変わりや心理的な駆け引きを楽しむ派なので、そうした恋愛物語もそこそこに公式CPを作られるとちと興醒めする。百合成分は二次創作で摂取すれば充分かな、という感じ。 

 いずれにせよ、傑作であることに変わりはない。観て損はない神アニメだ。

[百合の分類]4-C,S

 

百乃モト『宝石のようなもの』(2016)

 短編11本。商業・同人から再録した同人誌。

 少女漫画的な繊細なタッチの絵柄で、揺れ動く感情を丁寧に描き出している。切ない片想いが多く、両想いでも両者の擦れ違いやぶつかり合いをしっかり見せてくれる。学生百合だけでなく作者の得意とする社会人百合もあり、バランスの取れた短編集だ。

 作者の既刊『キミ恋リミット』『レイニーソング』と内容的に繋がっている作品があるが、これ単体でも充分に楽しめた。特に、前後編で構成される「エッちゃんとマイちゃんの恋模様」が出色の出来。片想いが実を結ぶまでを描いているのだが、単純なハッピーエンドでなく、今後どう転んでゆくのか分からない不安感を残し余韻のあるラストに仕上がっている。現時点での短編百合漫画私的No.1作品。

 幼馴染のナツミに想いを寄せるよっちゃんを描いた「バスタイム」には、胸が成長したナツミを「えろぃ」と言うよっちゃんに対し、「あたしはよっちゃんのがエロぃと思う」とナツミが言い返す場面がある。胸という記号的な性的魅力よりも、秘めた恋心から自然と滲み出る色っぽさの方がずっと「エロぃ」。この短編集は、そうした透明感のある色っぽさに溢れている。

[百合の分類]1,4-S

 

百合の定義

 百合好きと自称して記事を書くからには、まず百合とは何たるかの定義をしておこうと思う。もちろん人それぞれの定義が存在し、論争が絶えないことは承知しているが、ここではあくまでも個人的な考えを書くことにする。

 

 「百合」とは、女性同士の何らかの関係性、及びそれを描写する作品・ジャンルを指す言葉である。「百合」を扱った描写は、以下に挙げる3つの方向性に分類することができる。

A.身体的接触

 やたら抱き着いたり胸を揉んだりキスしたりといった、過剰なボディタッチや濃厚なスキンシップを中心に描いたもの。かわいい女の子同士がきゃっきゃうふふ、いちゃいちゃべたべたとじゃれ合う様子に萌えることが主眼であり、内面描写にまで踏み込まない場合が多い。

B.精神的つながり

 相手を何らかの形で意識したり、特別な感情を抱いたりする様を中心に描いたもの。恋愛に限らず、友愛、姉妹愛、家族愛、師弟愛、敬慕、憧憬、信頼といったピュア百合から、羨望、嫉妬、独占欲、嗜虐心、敵愾心、憎悪、殺意といったドロドロ百合まで、ありとあらゆる感情や欲望が含まれる。お互いに無関心でさえなければ、双方向でも一方的でもよい。「百合は精神的なもの」的な言説が想定しているのは大体これ。

C.恋愛・性的関係

 女性同性愛、レズビアン、ガール・ミーツ・ガールを主題的に描いたもの。キスもセックスもあり、もしくはいずれその種の行為を含んだ関係に至ることを前提とする。恋愛感情の有無を問わない、体だけの関係もこの区分に入れておく。

 

 もちろん、全ての百合が以上の3つのどれかに明確に分けられるというわけではない。森永みるくGIRL FRIENDS』等の古典的な百合漫画では、恋心の萌芽や擦れ違いといったBに該当する段階から、両想いになってからのCに該当する段階への移行が描かれる。タチ『桜Trick』はBやCの要素も含まれるが、それ以前に「とにかく女の子同士のキスをたくさん見たい」というAの方向性に特化した作品だと言える。キスだけに。

 明確な線引きができないのならば分類することに意義はあるのか、と思われるかもしれない。しかし、たとえば「甲は友達感覚でよく乙に抱き着いているが、その度に乙はどきどきして甲を意識してしまう」といった場合、単純ないちゃつきに萌えるのであればA、乙の揺れ動く心に萌えるのであればBを指向していると言える。このように、作品自体の分類というよりも、どういう百合が好きなのかという自らの萌えポイントの把握に便利なのだ。

 従来の百合の定義に関する議論は、「これは百合だ」「いや違う」という不毛な論争に終始していた。それは、どこからどこまでが百合なのか、前提が共有されていなかったからだ。だが、「この描写は百合Aだが、わたしの好きなのは百合Bの方だ」「自分にとってはCのみが百合だが、AやBも百合と感じる人はいる」といった認識の仕方をすることで、もっと建設的な議論が可能になるだろう。

 つまり、『響け!ユーフォニアム』の久美子と麗奈は、お互いを特別な存在と認めているというB的な意味で百合なんです。あいつらどっちも男好きやん百合ちゃうやろという意見はあくまでもC的観点であって、わたしはBで萌えているんです!!(これが言いたかった)

 

 いくつか追記。

 しばしば「百合とレズの違い」が取り沙汰されることがあるが、それが的外れな議論であることはお分かり頂けるだろう。そもそも百合はジャンルであり、レズビアンは個人の性的指向だ。では百合はレズビアンを描いたマイノリティ文化かと言うとそうでもなく、そこで描かれる女性は別にノンケでもいいし、バイセクシュアルやアセクシュアルでも構わない。A~Cのどれかに該当すれば百合と言えるのだから。なお、この程度のセクシュアリティ用語は、百合を云々するならば必ず知識として押さえておくべきだと思う。

 また、ここで言う「女性」とは、性自認が女性の人間であるとする。つまり、男の娘や女装男子は百合に含まない。個人的にはね。含みたい人はDとか作って勝手にやって下さい。

 じゃあそもそも「人間」って何よ、というツッコミも来るかもしれないが、さすがにそこら辺は適当でええやろ。伊藤ハチの獣耳とか好きです。

 

 定義もっとこうしたらいいと思うよ~とかあればコメント下さい。

 

 改訂版の記事はこちら。

yuri315.hatenablog.com