袴田めら『新装版 最後の制服』(2011)

 全2巻。初出は芳文社まんがタイムきららキャロット』『まんがタイムきららMAX』及び描き下ろし。2005~06年に刊行された全3巻をまとめ直し、つぼみシリーズにて改めて発行された。

 萌え系の可愛らしい絵柄に騙されてはいけない。女子高の学園寮で群像劇という、正統派の本格百合漫画だ。作中で「憧れの人の追っ掛け」に対する違和感を登場人物に表明させ、一時的な女子校のファンタジーとしての百合とは一線を画した点は天晴れと言う他ない。

 実る恋、突然の別れ、報われぬ想いと、物語は人によって様々だが、どれも真摯に、かつ温かく大切なものとして描いている。「体に触れたい」「もっと一緒に居たい」といった素直な気持ちに寄り添い、その延長線上に自然と性的な触れ合いも出てくるため、読んでいてとても納得できるし満ち足りた気分にさせてくれる。ノンケや男もしっかりと個性を持って登場し、作品世界に奥行きを与えている。ありふれた日常の風景、何気ない遣り取りの中にある、きらきら輝くかけがえのない時間を切り取った、何度でも読み返したくなる上質な作品である。

 各話の間に挿入されている「かってにさいごのせいふくこうさつ」が面白い。登場人物の絵の傍らに、キャラ設定や注目すべき萌え要素の短い説明が書き込まれており、作者の迸る愛と萌えへの飽くなきこだわりを感じさせられた。記号的な美少女キャラが氾濫する今日この頃、作り手の情熱は果たしてこれ程のものになっているのだろうかと思わず考えを巡らせてしまった。

[百合の分類]1-3.自覚と告白/1-4.駆け引きと対話

 

咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A(2012)

 全16話。2009年放送のアニメ『咲-Saki-』の第2期。

 原作は小林立咲-Saki-』の外伝である、五十嵐あぐり作画の同名漫画。監督は小野学、制作はStudio五組

 原作『咲-Saki-』は単なる萌え漫画ではない。チームが一丸となって麻雀という名の異能バトルを戦い抜く、王道ド直球の熱血スポ魂なのだ。そのチームの団結力の源泉の一つとなっているのが、選手同士の百合である。あの子のため、みんなのためという想いが、少女たちを強くし、そして成長させる。燃えと萌えがふんだんに詰まった唯一無二の青春百合漫画なのである。

 本作にも分類で言えば絆系の百合描写が数多く見られる。旧友との再会、師のためのリベンジといった強い意志が物語を動かし、勝利への道筋を付ける。また、主人公側だけでなく対戦校の選手の心情や関係性もしっかり描いており、無尽蔵のカップリングで無限に百合妄想を膨らませてくれる。

 そして何よりも、第9~12話の全国大会準決勝第一試合先鋒戦が最高だ。立ちはだかる最強の敵を、チームメイトに託された思いを乗せて打ち破るという試合展開がとにかく熱い。特に千里山女子の園城寺怜の闘牌は涙なしには観られないだろう。この4話のためだけに全話鑑賞する価値はある。

 また、五十嵐あぐりではなく小林立の絵柄で映像化しており、漫画の単なるアニメ化に留まらずアニメとしての独自の存在価値を生み出している。効果的なメディアミックスという点からも評価できる作品である。不満な点があるとすれば、千里山女子のCVであるStylipSメンバーの関西弁はとても聞けたものではないのだが、OP曲「MIRACLE RUSH」「TSU・BA・SA」は素晴らしかったので許容範囲内としておこう。全国大会準決勝以降のアニメ化にも期待したい。

[百合の分類]2-4.バディ

 

井村瑛『最低女神』(2012)

 短編7本。初出は一迅社コミック百合姫』、他に未発表作や描き下ろし等。

 柔らかな描線でふんわりとした可愛らしい女の子と、暗い感情が渦巻き翳のある人間模様の取り合わせが味わい深い。重めの設定が多く胸を締め付けられながらも、極端に殺伐とすることはなくどこか温もりを感じさせる。画力はやや不安定にも見えるが、それによって今にも壊れてしまいそうなひりひりした空気感を出せていると思う。

 「プラチナサンディ」は、滅びた世界という舞台設定が個人的にツボであった。極限状況における精神崩壊という物語展開は使い古されたものだが、その引き金を引いたのが友達だと思っていた同性からの告白ということで、上質な百合作品に仕上がっている。真実を隠蔽しつつ巧妙に伏線を張り、読者をあっと驚かせる手腕も鮮やかだ。

 デリヘル嬢×お嬢様の「リバーサル」も良いのだが、後日談として描き下ろされた「リバーシブル」の方が好みの絵柄。ツンデレ同士の掛け合いが何とも微笑ましい。救いの無いお話が続く中、最後のページの琴子の笑顔のお蔭で、ほっこりと温かな気持ちで読み終わるのも嬉しいところだ。

 なお、本作も記事執筆時点で国立国会図書館に収蔵されていない。一迅社はちゃんと納本して下さい(2回目)

 ※追記。2017年2月20日、国会図書館OPACに書誌情報が追加された模様。

[百合の分類]1,4-S

 

カードキャプターさくら(1998)

 全70話、映画2本。

 原作はCLAMPの同名漫画。監督は浅香守生、制作はマッドハウス

 見所はずばり、カップリングの豊富さ。百合、BL、近親愛、生徒×教師、果ては人外と、ありとあらゆるCP属性の見本市となっている。まあ結局はヘテロエンドなのだが。

 全体の中で百合の占める割合は決して大きくない。その数少ない百合要員である大道寺知世は、一貫してさくらの恋を応援し見守り続ける。さくらの幸せが自分にとって一番の幸せという、涙ぐましい程の一途さ。第50話で「知世ちゃんに好きになってもらえた人は、きっと幸せだね」とさくらに言われた時の、心の底から嬉しそうな笑顔。と書くと、ただ叶わぬ恋に酔って悲劇のヒロインぶっているだけなのではないかと思われるかもしれない。けれども彼女は、さくらに自作のコスチュームを着せて撮影したいという己の欲望もちゃっかり満たしているのだ。一方的に気持ちを押し付けることも無理やり抑え込むこともしない、バランスの取れた理想的な片想い。知世のように生きてゆけたら、人生は楽しく美しいものとなるに違いない。

 物語は殆どカード集めに終始し、些かワンパターンなきらいもある。だが、変身・戦闘シーンの映像的快楽、魅力的なキャラクターの織り成す人間ドラマがテンポ良く繰り広げられ、観ていて飽きることがない。ギャグとシリアスの配分も絶妙。文句なしの名作である。

[百合の分類]1-6.片想い

 

コダマナオコ『コキュートス』(2014)

 中編2本。初出は一迅社コミック百合姫』及び描き下ろし。

 登場人物の心の声を丁寧に拾ってゆき、気持ちや関係性がじわじわと変化してゆく様を鋭くシリアスに描いている。特に、冷たい表情や目線の描画に凄味があって、思わずぞくりとさせられる。

 表題作は、ドロドロとした心の動きもさることながら、気持ちが先走って体に手を出してしまう展開が読み応えたっぷり。内面描写もエロもきっちりと研ぎ澄まされている点はコダマナオコ作品の大きな魅力である。

 2作目の「モラトリアム」が大のお気に入り。主人公の真央は、大学で知り合った友人・伊月に恋愛感情を持たれていることに気付くが、自分には伊月に対する独占欲はあれど性欲はないことも自覚する。この「恋愛ではないけれど好き」という感情のドロドロした部分から目を逸らさずに描き切っているのが素晴らしい。「百合は精神的なつながりこそ至高、肉体関係とか要らない!」なんてことを言う人は、その欲望がいかにおぞましさを孕んだものか、本作を読んで向き合ってほしいものだ。

 更に秀逸なのは、その後に伊月視点の描き下ろし「モラトリアム -ITSUKI side-」を追加したところだ。ここで、実は伊月は、真央が自分の気持ちに気付いていることを知っているのだと明かされる。全て分かった上でお互いの駆け引きが続いてゆくことを匂わせつつ物語は幕を閉じる。こういう歪んだ愛とかドロドロ百合とか大好物です。

 ただ、一つ気になったのは、真央の元彼が「女同士はキレイだけど男友達に恋愛対象として見られてたら無理」といった台詞を吐くこと。真央が「自分は無理じゃないのか」と自問自答する流れと繋がっているのだが、人によってはホモフォビアだと嫌悪感を覚えるかもしれない。「自分は男を恋愛対象としては見れない」的な、自己の性的指向を語る表現にした方が良かったのではないか、という印象。

 全体的に、鮮烈な切れ味のドロドロ百合が存分に楽しめる良作である。ちなみに、カバー下のあとがき漫画がちょっと面白い。そっか、これも百合か、と妙に感心してしまった。

 それから、記事執筆時点で本作は国立国会図書館に収蔵されていない。一迅社はちゃんと納本して下さい。

[百合の分類]1-4.駆け引きと対話

 完全版についての記事はこちら。

yuri315.hatenablog.com

 

魔法少女まどか☆マギカ(2011)

 全12話、総集編映画2本、続編映画1本。

 原作なしのオリジナルアニメ。監督は新房昭之、制作はシャフト。

 蒼樹うめの可愛らしいキャラクター原案と虚淵玄のシリアスかつハードな脚本とのギャップで話題を集めた。「魔法少女もの」のお約束を打ち破り、既成概念を破壊するという構造は『新世紀エヴァンゲリオン』と類似している。

 

 論評の前に、見田宗介大澤真幸による戦後精神史の区分を用いて、アニメ史を簡単に概観してみよう。「大きな物語」が機能していた「理想の時代」、それが失効し代替としての虚構が支配した「虚構の時代」が終焉したことで、『エヴァ』以降のセカイ系が台頭した。近景と遠景を直結させることで、身近な個人の実存の問題を扱いつつも壮大な物語を構築し、物語ることの説得力を担保した一方、どこまでも深く内面へ潜ってゆく引きこもり的な心性も生み出された。その反動として出てきたのが、とにかく行動しろ生き残れという決断主義であり、いやいっそどこまでも近景に埋没して現実逃避しようぜという日常系であった。いずれも物語性を無視・放棄することで物語ろうと試みたのだ。そして本作は、現実なんてそう甘いもんじゃない、どんなに頑張っても祈りは呪いを生み希望は絶望になるんだという容赦ない世界観によって、決断主義も日常系も一刀両断し全てを振り出しに戻した感がある。

 『まどか』の新しさは、セカイ系的な様相を纏いつつも実は全く異なる想像力を提示した点にあると思う。確かに、まどか魔女化という地球の危機は存在したが、インキュベーターの宇宙規模の視点で見れば大したことではない。また、ほむらの積み重ねた時間が結果的にまどかの祈りに力を与え世界改変へと至らしめたのだが、まどかに出来たことは世界を救うのではなく、世界システムを僅かに改善することだけだ。主人公とヒロインの関係性は、もはやセカイを左右するほどの大きなものではなく、何とか頑張って世界が少しでも好い方へ向かうように努力することくらいしか出来ない小さなものに過ぎない。個人とセカイの二項対立から脱却し、個人は巨大なシステムの内部に存在し一部として働き掛けるしかないという世界観も、現代グローバル社会に対応したものとなっている。

 また特筆すべきは、物語を失った現代において、いかに物語性を回復せんとしているかだ。まどかは、地域や時代を越えた全人類の救済という「大きな物語」によって、身近な魔法少女の希望を絶望で終わらせないという「小さな物語」を叶えた。これは、近景が遠景を呑み込むセカイ系のように見えて、遠景を改革することで連続的に近景の問題も解決してしまおうとするという逆転の発想である。セカイ系のメタと言われる所以である。肥大化した自意識の不安ではなく、普遍的な希望を叶えようとする願いによって世界を革命したことで、本作は公共的価値のある物語として成立することができた。だからこそ、どんなに残酷な世界でも希望を信じ抜き変えてみせるというまどかの決意表明は、これ程までにわたしたちの胸を強く打つのである。

 

 そして、続編である劇場版『[新編]叛逆の物語』によって、再び物語は裏返される。ほむらはまどかの実存的幸福を取り戻すために、まどかが普遍的希望によって作り出した世界を破壊した。ここに至って公と私という対立軸が再び蘇る。しかし、ほむらは単に己の欲望のまま行動したわけでなく、ひたすら一人の人間としてのまどかの幸せを守ろうとしているのだ。欲望と秩序の対立、個人の権利と公共の福祉の衝突を見せつけられ、TVシリーズでまどかの自己犠牲に賛辞を送った全員が何とも言えぬ後味の悪さの中に放り込まれる。

 なおかつ、ほむらが世界を書き替えてインキュベーター支配下に置いたことで円環の理が乗っ取られるのを未然に防げたのだし、さやかやなぎさも生き返ることが出来た。世界は滅亡するどころか、むしろ好い方へ向かったのだ。それなのに、ほむらは「悪魔」として孤独に佇まざるを得ない。これまで近景に埋没し中景から目を逸らし遠景を呑み込むことを単純に「悪」と切り捨ててきたセカイ系批判に対し、真っ向から批判を返した形だ。ただ、「じゃあ結局どうすればいいのか」という結論は出されていない。願わくば、ここから更に一歩先へ行く想像力を、『まどか』の続編で見てみたいものである。今後の展開に期待したい。

 

 さて、肝心の百合だが、友愛の延長線上にある描写が散見する程度だろうか。TVシリーズにおけるほむまど・杏さや的要素が二次創作で強化され、『叛逆』に逆輸入され公式CPとして定着したという流れは興味深い。だがそれだけの話だとも言える。わたし自身は関係性の移り変わりや心理的な駆け引きを楽しむ派なので、そうした恋愛物語もそこそこに公式CPを作られるとちと興醒めする。百合成分は二次創作で摂取すれば充分かな、という感じ。 

 いずれにせよ、傑作であることに変わりはない。観て損はない神アニメだ。

[百合の分類]2-5.偏愛

 

百乃モト『宝石のようなもの』(2016)

 短編11本。商業・同人から再録した同人誌。

 少女漫画的な繊細なタッチの絵柄で、揺れ動く感情を丁寧に描き出している。切ない片想いが多く、両想いでも両者の擦れ違いやぶつかり合いをしっかり見せてくれる。学生百合だけでなく作者の得意とする社会人百合もあり、バランスの取れた短編集だ。

 作者の既刊『キミ恋リミット』『レイニーソング』と内容的に繋がっている作品があるが、これ単体でも充分に楽しめた。特に、前後編で構成される「エッちゃんとマイちゃんの恋模様」が出色の出来。片想いが実を結ぶまでを描いているのだが、単純なハッピーエンドでなく、今後どう転んでゆくのか分からない不安感を残し余韻のあるラストに仕上がっている。現時点での短編百合漫画私的No.1作品。

 幼馴染のナツミに想いを寄せるよっちゃんを描いた「バスタイム」には、胸が成長したナツミを「えろぃ」と言うよっちゃんに対し、「あたしはよっちゃんのがエロぃと思う」とナツミが言い返す場面がある。胸という記号的な性的魅力よりも、秘めた恋心から自然と滲み出る色っぽさの方がずっと「エロぃ」。この短編集は、そうした透明感のある色っぽさに溢れている。

[百合の分類]1,4-S

 

百合の定義

 百合好きと自称して記事を書くからには、まず百合とは何たるかの定義をしておこうと思う。もちろん人それぞれの定義が存在し、論争が絶えないことは承知しているが、ここではあくまでも個人的な考えを書くことにする。

 

 「百合」とは、女性同士の何らかの関係性、及びそれを描写する作品・ジャンルを指す言葉である。「百合」を扱った描写は、以下に挙げる3つの方向性に分類することができる。

A.身体的接触

 やたら抱き着いたり胸を揉んだりキスしたりといった、過剰なボディタッチや濃厚なスキンシップを中心に描いたもの。かわいい女の子同士がきゃっきゃうふふ、いちゃいちゃべたべたとじゃれ合う様子に萌えることが主眼であり、内面描写にまで踏み込まない場合が多い。

B.精神的つながり

 相手を何らかの形で意識したり、特別な感情を抱いたりする様を中心に描いたもの。恋愛に限らず、友愛、姉妹愛、家族愛、師弟愛、敬慕、憧憬、信頼といったピュア百合から、羨望、嫉妬、独占欲、嗜虐心、敵愾心、憎悪、殺意といったドロドロ百合まで、ありとあらゆる感情や欲望が含まれる。お互いに無関心でさえなければ、双方向でも一方的でもよい。「百合は精神的なもの」的な言説が想定しているのは大体これ。

C.恋愛・性的関係

 女性同性愛、レズビアン、ガール・ミーツ・ガールを主題的に描いたもの。キスもセックスもあり、もしくはいずれその種の行為を含んだ関係に至ることを前提とする。恋愛感情の有無を問わない、体だけの関係もこの区分に入れておく。

 

 もちろん、全ての百合が以上の3つのどれかに明確に分けられるというわけではない。森永みるくGIRL FRIENDS』等の古典的な百合漫画では、恋心の萌芽や擦れ違いといったBに該当する段階から、両想いになってからのCに該当する段階への移行が描かれる。タチ『桜Trick』はBやCの要素も含まれるが、それ以前に「とにかく女の子同士のキスをたくさん見たい」というAの方向性に特化した作品だと言える。キスだけに。

 明確な線引きができないのならば分類することに意義はあるのか、と思われるかもしれない。しかし、たとえば「甲は友達感覚でよく乙に抱き着いているが、その度に乙はどきどきして甲を意識してしまう」といった場合、単純ないちゃつきに萌えるのであればA、乙の揺れ動く心に萌えるのであればBを指向していると言える。このように、作品自体の分類というよりも、どういう百合が好きなのかという自らの萌えポイントの把握に便利なのだ。

 従来の百合の定義に関する議論は、「これは百合だ」「いや違う」という不毛な論争に終始していた。それは、どこからどこまでが百合なのか、前提が共有されていなかったからだ。だが、「この描写は百合Aだが、わたしの好きなのは百合Bの方だ」「自分にとってはCのみが百合だが、AやBも百合と感じる人はいる」といった認識の仕方をすることで、もっと建設的な議論が可能になるだろう。

 つまり、『響け!ユーフォニアム』の久美子と麗奈は、お互いを特別な存在と認めているというB的な意味で百合なんです。あいつらどっちも男好きやん百合ちゃうやろという意見はあくまでもC的観点であって、わたしはBで萌えているんです!!(これが言いたかった)

 

 いくつか追記。

 しばしば「百合とレズの違い」が取り沙汰されることがあるが、それが的外れな議論であることはお分かり頂けるだろう。そもそも百合はジャンルであり、レズビアンは個人の性的指向だ。では百合はレズビアンを描いたマイノリティ文化かと言うとそうでもなく、そこで描かれる女性は別にノンケでもいいし、バイセクシュアルやアセクシュアルでも構わない。A~Cのどれかに該当すれば百合と言えるのだから。なお、この程度のセクシュアリティ用語は、百合を云々するならば必ず知識として押さえておくべきだと思う。

 また、ここで言う「女性」とは、性自認が女性の人間であるとする。つまり、男の娘や女装男子は百合に含まない。個人的にはね。含みたい人はDとか作って勝手にやって下さい。

 じゃあそもそも「人間」って何よ、というツッコミも来るかもしれないが、さすがにそこら辺は適当でええやろ。伊藤ハチの獣耳とか好きです。

 

 定義もっとこうしたらいいと思うよ~とかあればコメント下さい。

 

 改訂版の記事はこちら。

yuri315.hatenablog.com

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